四国説教塾
2002年度セミナー雑感

〜四万十川沈下橋に佇む加藤常昭師(北川撮影)


説教とは説教者の自己を表現する"文学"である
(釈義・黙想を説教にする言葉)

北川一明
中村栄光教会牧師

 説教とは何かと言えば(ここ十数年来の日本基督教団立神学校出身者の間に限った話ですが)、「聖書の説き明かしによってキリストの現臨を実現するものである」ということになっていると思います。私もこれまではこれに全面的に同意し、説教者としての使命をここに置いています。
 しかし「聖書を説き明かす」とは、説き明かし手の自己と無関係ではいられないはずです。2002年度の説教セミナーでは、説教者の自己を表現することは、旧来の説教観と矛盾しないばかりでなく、むしろ旧来の説教の目的を実現するものである可能性を、考えさせられました。

T.
 説教セミナーの説教演述プログラム(2002年11月27日、於・高知旭教会、ルカ7:11-17)では、教職者でなく一般信徒のかたにも説教を聴いていただき、印象、感想を集めました。
 ある説教に対する一般信徒のかたの感想の中に、「先生が勉強なさったことをそのまま語られても、私たちには理解できません」というものがありました。もう少し無遠慮に表現すれば「まるで注解書を丸写しにした説教のようだ」という意味に聞こえました。
 私たちは、その説教の準備段階から共同の学びをしていました。したがって、その説教が注解書を左から右へ書き写したものではなく、説教者自身の言葉でよく考えて書かれた説教に違いないことを、よく理解していました。さらにその説教は、ごく最近行なわれた親しい者の葬儀についても言及するものだった点で、いわゆる「説教者の実存のかかった説教」と言われるような種類のものでした。
 それだけに、正しい福音を自分の言葉で「実存をかけて」語っても、聞き手にとっては「注解書の丸写し」に聞こえることがあるという事実に、私は途方に暮れる思いがしました。
 しかしこのことは、かえって説教の言葉と、釈義、黙想の言葉との違いについて、ある示唆を得るきっかけにもなりました。
 セミナーでは、外国人説教者の黙想を丁寧に読みました。その結果、「それらの黙想の助けを借りて、聖書箇所からわれわれ自身が福音を読みとることができた」という思いに至りました。
 その福音の内容は、おのずと参照した黙想の言葉と似た言葉になります。一例をあげれば、「ナインの町から出て行く葬送の行列は、今はまだ生きてはいるものの、死に支配されたもの、すなわち死者の行列である」という言葉遣いで、私は聖書を読みました。ほぼ同じような言葉が、イーヴァントの黙想中にもあります。
 先の説教は、そうして読み出した言葉が用いられていたため、字面だけを見れば「注解書の丸写し」にも似たものになっています。しかし説教者の心づもりとしては、おそらく100%自分の言葉で福音を語ったつもりであることは、われわれはよく理解しております。自分で見つけた福音の言葉がたまたま偉大な神学者と同じ言葉であったからと言って、注解書を左から右へ丸写しにしたという印象を受けられるのは、その説教者でなくても心外でした。
 しかし今回のセミナーで学んだ外国人の黙想は、説教として語られたものではなく、説教の前段階のものとして書かれたものです。この事実は、そのままでは説教にはならないということを意味します。黙想によって見つかった福音の言葉は、そのままでは単に黙想であって、説教で語るべきは、それとは別な言葉であるはずです。「実存をかけた説教」が注解書の丸写しに聞こえるという衝撃的な事実から、この「黙想の言葉とは異なる説教の言葉」というアイデアを与えられました。

U.
 説教者の説教準備では、自ら釈義し、また他の釈義、黙想、説教を読んで、それらと自分の経験を比べ合わせ、福音の「最終結論」を得ます。その「最終結論」は、正統信仰として既に告白文書になっているものと大きく違っていては、福音を読み違えていることになります。それを言い換えれば、われわれが聖書から読み出す福音をごく大雑把に要約すれば、正統な信仰告白と同じ言葉になるということです。
 すると、説教で読み出した福音の「最終結論」がたんに宣言されるだけでは、ただ正統信仰をうわ言のように繰り返していることと変わらないことになる可能性が、逆に出てくる理屈です。しかし説教は、信仰告白の朗読とは別の役割を担っているはずです。
 説教の目標は、聖書中の福音を礼拝会衆が説教者と同じように獲得することです。そのために説教でなされるべきことは、説教者が説教の準備段階で得た福音の「最終結論」を一方的に宣言することよりも、むしろ説教者が「最終結論」に達したその過程をお話しすることかもしれません。そのことによって、会衆も説教者と同じ結論、すなわち正統な福音に導かれるのです。
 説教準備において正統な福音に導かれたのは、聖書を自分の経験と比べ合わせて考えた時です。ですから説教者が語るべきは、福音を受けとった説教者自身の心の軌跡です。すなわち、説教とは福音をそのまま最終結論として語ることではなく、説教者自身の自己がいかに福音を読みとったかを宣べ伝えることかもしれません。その意味においては、説教とは正統教理を語るよりもむしろ、自分が福音を経験したことを宣べ伝えることです。すなわち、説教とは「自己宣伝」です。
 説教者が、自分自身が福音を獲得した過程を語らず、ただ結論のみを一方的に宣言しても、礼拝会衆が同じ福音を受け取ることが出来るのならば、何の問題もありません。しかし、それがただ注解書の丸写しにしか受け止められないのならば、福音の伝達を妨げているのは聖書と会衆の間に入っている説教者です。それではいかに誠実に説教しているつもりでも、福音の宣教にはなっていません。
 「説教者は自己宣伝をしてはならない」という倫理規定に従うことが福音の伝達を妨げるのならば、その倫理規定は見直す必要があります。自己宣伝は、福音を会衆に届けることで正当化されます。

V.
 説教者自身が福音を獲得した過程を語る一つの有力な方法が、"文学"的な表現です。しかも、文学的方法はたんに一方法であるばかりでなく必然性があるのではないでしょうか。セミナーにおいて、別の説教を評して加藤師が「文学的」という表現をしたことから、それを感じました。
 先の例で言えば、たとえば「ナインの町から出て行く葬送の行列は、今はまだ生きてはいるものの、死に支配されたもの、すなわち死者の行列である」という内容を、聖書から読み取ったとします。この同じ内容を礼拝会衆に感じ取らせるために必要不可欠なことは、「自分は死に支配されたものだ」というイメージを、会衆の心に湧き起こさせることです。
 説教者が、仮にナインの町の規模や位置を知ることで「自分は死に支配された者だ」というイメージを抱くとすれば、ナインの釈義的な説明をすることは、説教上必然性があります。しかし説教者自身が「自分は死に支配された者だ」というイメージを喚起さるのは、普通はナインの釈義的な説明よりも肉親の葬儀においてでしょう。それならば、聴衆のイメージを喚起するために、いわゆる「例話」として肉親の葬儀を語ることは、わずらわしい聖書知識の説明をするよりもずっと有益である可能性があります。
 説教者の個人的な体験を語る場合、個人的な範囲に留まる語りかたでは、やはり礼拝会衆には福音が届かない場合があります。(この点では、旧来説教者の職業倫理とされてきた「自己宣伝をしてはならない」や「例話は福音の伝達を妨げる」にも、ある程度の妥当性があります。)説教者の個人的な体験は、普遍性を持った形で提示されなければなりません。
 個人的な体験に普遍性を与える文書創作活動を"文学"と呼ぶならば、説教は"文学"でなければならない必然性があります。この意味で、「説教とは説教者の自己を表現する"文学"」です。
 復活のキリストについて、リアリティをもったイメージを会衆中に喚起することが出来れば、それは礼拝のただなかにキリストが現臨することに通じるだろうと思うのです。すなわち、「自己を表現する文学」としての説教こそ、「聖書の説き明かしによってキリストの現臨を実現させる」という旧来の説教の目標を実現させる、有力な方法です。

W.
 いわゆる「説教者の実存」とキリスト現臨のリアリティについて付言すれば;
 先の説教は、実際にあった葬儀を語っている点で、前述の通り「説教者の実存のかかった説教」でした。また、葬儀の実例を語っている点で、その部分は教理を客観的に講解したというよりも、個人的、主観的な体験表現が多かったと思います。
 そうした主観表現を文学的と呼ぶならば、当該説教も十分に"文学的"でした。それにもかかわらず福音のリアリティは礼拝会衆に届きませんでした。その理由として、少なくとも以下の二つがあげられるように思います。
 ひとつは、個人的な体験が十分に普遍化さていたかという問題です。これは上述の言い方をすれば、「文学性が足りなかった」と言えます。
 もうひとつは、個人的な体験を語ることが説教中で担っている役割に関する問題です。
 当該説教では、説教者は聖書から独りで福音を読み出した後、その福音の最終結論を礼拝会衆の実生活に適用させるために、自己の個別の体験に言及していました。すなわち、説教者が説教中で会衆を指導教化する目的で、「実存をかけた」表現が用いられていたのです。
 しかし説教者が他人を指導教化しなくとも、福音の最終結論を礼拝会衆が共有した場合には、実生活への適用は会衆自らが自らの力で十分なし得ます。そして福音の自己への適用は、会衆自身が自発的にすることが本来の信仰生活でしょう。
 「説教者の実存をかけた」文学的表現が用いられるのは、最終結論の生活への適用にではなく、最終結論を導き出すためでなければならないと思うのです。

X.
 "文学"という言葉は虚構を含むものと理解され、説教作成者の間では否定的な印象を持たれかねません。しかし説教は元来自然科学の論述とは意図を異にするものですから、歴史上の事実であるか否かを問題にしても意味がないように思います。
 聖書記事にも、史実ではないという点では虚構と言わざるを得ないことが書き記されているようです。しかしそれによって読者に福音が届いた場合には、結果的に「文学的虚構が神の言葉として用いられた」と受け止めるべきです。同じように、説教に実際にあったことだけが語られているか/文学的虚構が混じっているかは、ただ福音を礼拝会衆中に受肉させることが出来たかどうかで評価されるべきかもしれません。
 前述の通り、説教が礼拝共同体の普遍的なイメージを創出するものであるのならば、文学的方法を採ることには必然性があります。そして、個別の体験を普遍化するためには、文学的虚構を完全に排除することは出来ません。虚構を排したために福音が届かないのならば、説教者の責任を果たしていないという点で、倫理的にはより重罪です。
 さらに心情的にも「虚構を排した説教」には問題を感じます。「証し」的な体験例話を中心にした説教でも/教理解説的な説教でも、説教者が何事かを語る以上、説教者の主観による史的事実の歪曲は多かれ少なかれ起こっています。それにもかかわらず説教者が客観性を保っているつもりでいるのならば、それはたんに無自覚であるに過ぎません。
 言葉を生業としている説教者が無自覚にうそをつきながら、傲慢にも「自分の説教に虚構はない」と信じ込んでいるのは、かえって罪深いことではないでしょうか。意図すると/せざるとにかかわらず、己が説教には虚構が混じっていることを覚えつつ、ただ福音が礼拝会衆に届くことをのみを祈って説教すべきと思います。