画面調整








kata ton kalesanta uma" agion kai autoi agioi en pash anastrofh genhqhte,
dioti gegraptai agioi esesqe oti egw agio".


トップページへ礼拝説教論関係批判的な論文です聖書釈義創作ものがたりWeb画の他茶道具あり俳句音楽評論履歴、個人消息韓國報告


水戸黄門と暴れん坊将軍の喩え   

説教における腕力としての証し
(偏差値の低い牧師の説教のありかた)
北川一明   

 今はむかし……; 日本中の教育水準が低いころ、教会の牧師さんは、曲がりなりにもインテリで、一般社会からは尊敬されていたようです。
 そのころは、村いちばんのアメリカ通である牧師さんが、「あなたの罪は、キリストの十字架によって赦されました」と壇上から宣言すれば、「そうかもしれない」と感じるひともあるでしょう。
 牧師の背後には英会話とGHQとドル紙幣が燦然と輝いています(実際はともかく、そんな印象があります)。さらに、普段威張っている地元の名士たちが、すぐ間近で「十字架の言葉」にひれ伏しています。はじめて教会に来たひとたちが、「信じてみようかな」と思って不思議はありません。

 ところが今や、世は「就職先がないから大学院に残る」という時代です。東西の大学神学部も、偏差値が低くて入りやすい学校にランクされています。今や牧師とは「偏差値が低いひと」です。さらに、牧師の言葉にひれ伏すひとの中には地元の名士も少なくなりました。
 そういう環境では、牧師さんが「この紋所が目に入らぬか」式の「力強い福音の宣言」をしたら、教会員はかえってしらけ、求道者の前で恥ずかしく感じる……ことも、あるかもしれません。

 「牧師先生はもう少し世間の常識に真摯に耳を傾けてくれよ」という苦情をしばしば聞きます。世間の常識に耳を傾けて、世間の常識に完全に追随服従していては、キリスト教の存在意義がなくなります。けれども、力強い宣言をただ非常識にガナッていても、世間から相手にされなくなり、「孤高の伝道(すなわちひとりよがりの自己満足)」をすることになります。

 戦争の前後に牧師になったかたの中には、社会でも指導的な立場になり得たひとも多いでしょう。そうした牧師たちは、「力強く福音を宣言」して聴衆を従がわせるだけの実績があります。それがない我々の世代が「力強く福音の宣言」をしていたら、ただのピエロです。
 「ピエロに身をやつしてでも福音を伝える」覚悟でやっているのなら立派です。けれども、「俺は牧師だぞ」みたいなプライドを保ったままで、偏差値の低い若造が「力強く福音の宣言」をやっていても、福音は伝わらない……みたいです。伝道が停滞しているのには、そのせいもあるでしょう。

 そんな現代の説教者=会衆関係は、暴れん坊将軍と悪代官一派に喩えられます。
 昔は水戸黄門でした。葵の印籠(十字架)を出したら、となりの代官たち(地域の名士)たちがひれ伏しているので、下々のものは一緒にひれ伏します。今は、将軍さまが「おぬしは俺を見忘れたか」と言って葵のご紋の刀を出して来ても、悪代官は「あれは偽者だ、やっちまえ」と言います。キリスト教国がイスラム教国に乱暴狼藉を働くシーンが世界に配信されている現代では、「あれは偽物だ」の方がよっぽど真に迫っています。
 そこで暴れん坊将軍は、実力を行使し、腕力でねじ伏せなければなりません。

 伝道の世界も、腕力でようやく秩序が回復するのなら、ちょっと残念だという意見もあるでしょう。けれども、かつて牧師が社会で指導的な地位にあった古きよき時代に、その立場を利用して「福音の力強い宣言をする」のだって、十分、強引な実力行使です。
 社会での優位なしに、純粋に説教の中だけに存在する「腕力」に当たるものが、「証し」だと思うのです。そこでこのお話しは、これまで四国説教塾で公開した説教論に繋がって行きます。  ただし「証し」という場合は、証しが何であるかが言われなければいけません。






前画面上のページトップページ先画面このページの先頭

トップページへ礼拝説教論関係批判的な論文です聖書釈義創作ものがたりWeb画の他茶道具あり俳句音楽評論履歴、個人消息