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教団有志神学研究会参加報告   

2003年8月4日
於:日本基督教団須崎教会
北川一明   

 周辺の教会教職にもご案内したところ、説教塾の青木豊牧師もご参加くださいました。四国説教塾のホームページで青木牧師のコメントがあります。

1.改作は創作である
 藤原定家の本歌取り論などを手がかりに、「改作は創作である」ことを論理的に説いてくださいました。
 信徒のみなさんが「説教3年サイクル説」などを陰口するのを耳にします。そうした信徒のみなさんの批判の故にか、説教者には過去の説教をリメークすることに罪悪感を感じる傾向があるようです。
 そうした牧師の職業倫理の根拠はあいまいです。どちらかと言えば、「御言葉に真剣に取り組んでいるなら、過去の説教の改作でお茶を濁すことなどできないはずだ」という精神主義、根性論に由来する倫理観かもしれません。
 それでも、そうした「自己規制」の結果、毎週の説教が素晴らしいものになり、信徒のみなさんが福音に生き生きと生かされているのならば、無根拠な自己規制も有効です。けれども、教会教勢が右肩下がりの現実は、そうした自己規制が説教を向上させる役に立っていないことを示すものでしょう。
 説教で語るべきことは、「ただひとつ」と言えば、ただひとつ、キリストのみです。説教者が「過去のを使いまわしちゃいけない」なんていくら自己規制をしても、内容的に本当に新しい言葉が語られているとは限りません。過去の改作に過ぎないものを上辺だけ新しく取り繕って自己満足しているだけなのかもしれません。
 山口先生の「改作=創作」理論に少し安心しました。それと同時に、ケチな誤魔化しはやめて改作ならはっきり改作として、その時々の礼拝会衆にただキリストの福音が伝えられることだけを目的に努めようと、志を新たにされました。

2.解釈装置としての説教論と作成装置としての説教論
 青木牧師(高知旭教会)が説教塾ホームページの「資料」の中でこの研究会について少し触れています。「山口先生の主張は『これまでの説教論はほとんどが解釈装置として説教論なので、それによって説教作成が困難だったのである。自分は、それによって説教が作れる作成装置としての説教論を構築したい』ということでした紹介されています」と言われています。
 私は、山口先生は「作成装置」を作ることにそこまで積極的だったかなァ……と、青木牧師の感想とは多少受け取った印象が違いました。
 それは、「解釈している説教分析理論に従がって自分の説教を製造しようとしても出来ない」ということは、私の場合は東京神学大学在学中からずっと聞いてきました。もちろん「なるほど」と深く感銘を受けましたが、その件についてはある意味でもう当然のことと認識していたので、今回の講演ではそれほどインパクトを受けなかったのです。
 良い評論は、評論自体がクリエイティヴです。「解釈装置」を「作成装置」と取り違えないで、ただ良い説教に対する独自的かつ創造的な「解釈」を学べば、巡り廻って自分の説教の足しになることは、いつも感じています。

3.説教文体確立の必要性
 説教に限らず文章で何かを言い表わすとき、「内容」と「表現」は別のものではない……すなわち……語るべき「内容」をまず牧師のこころの中にあって、それを牧師が言い方を工夫しながら「表現」するというように「内容」と「表現」をきっちり二分することはできない……というお考えのようです。
 そこで、説教の内容に直接にかかわる「文体」について、「説教文体論を確立する」という趣旨が、先生の講演の中心だったように思います。難しくって、今ではとうていここにはまとめられません(本報告は、会の3ヵ月後にまとめました)。
 ただ翌日の公開講演会にて、参加者である一般信徒のかたから「文体」についてのたいへん具体的な例が出て、私の見たところでは山口先生も「わが意をえたり」という風でしたので、そちらをご参照ください。






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