画面調整












kata ton kalesanta uma" agion kai autoi agioi en pash anastrofh genhqhte,
dioti gegraptai agioi esesqe oti egw agio".


トップページへ礼拝説教論関係批判的な論文です聖書釈義創作ものがたりWeb画の他茶道具あり俳句音楽評論履歴、個人消息韓國報告





韓國レポート#4
〜〜レトリックとは表現ではなく内容そのものである〜〜
語學堂スピーチ・コンテストで準優勝しました

2005年6月14日
北川一明


1.
 私どもの渡韓を支援してくださったみなさん、喜んでください!!
 延世大学語学堂の春學期が終わり、なんとか進級出來ました。それにオマケがつきまして、學期末のスピーチ・コンテストでは初級レベル200人あまりの學生の中で、みごと準優勝を果たしました。
 他の學生のみなさんは、ほとんど20代の若者です。経驗の量が違いますし、その上こちらは牧師ですから言ってみればスピーチの「プロ」です。その點では準優勝くらい当たり前……とも言えます。はっきり言ってクラス代表になれなかったら恥ずかしいと思っていましたし、「3位入賞以内」は狙っていました。優勝できなかったのは残念です。
 けれどもその一方で、こちらは50歳前ですから、新しく語學をやるには年齢はかなり大きなハンディキャップになっています。一生懸命勉強して單語も文法も何とかおぼえたのですが、韓國語を聞く時も、話す時も、おぼえたものが出て來るまでに時間がかかります。そうすると、とてもじゃないけど「会話」にはなりません。
 30名弱の代表が選ばれて學生の前で話しました。その中で、韓國語の実力はかなり下の方でした。語學學習を励ます意味では、先生がたは私に賞を与えたくはなかったかもしれません。
 良い成績が取れた理由は、ひとつにはもちろん「内容」ということがあります。
 しかし「内容」と言っても、語彙も文法もほんのわずかしか知らない中で、たくさんの「内容」など語ることは出來ません。このことから、礼拝説ヘの分野で今さかんに議論されている「レトリック」について、いろいろ考えさせられました。

2.
 私のお話ししたハナシの「内容」を要約すれば、「人間とは惡い動機で良い行ないをする場合のある複雑なものである」ということです。その位のことは、誰もが知っていることです。
 そのことについて、二つの例話を挙げました。ひとつは、「スピーチ・コンテストで良い成績をとって得意になりたいという動機から一生懸命作文した」ということです。もう一つは、「クラスで韓國語が下手な方であるのが嫌だから一生懸命勉強した」ということです。
 いずれの「例話」も「意味」を伝えるためには適切です。聴衆にとっては身に詰まされることなので、興味も惹きます。ですから軽率なインテリからは「成功した例話」という評価を受けるかもしれません。
 けれども、これらの「例話」は本当に「例に挙げたに過ぎないもの」なのでしょうか。「内容」「意味」を伝えるための「道具」なのでしょうか。
 私はむしろ逆に思えるのです。すなわち、「人間とは惡い動機で良い行ないをする場合のある複雑なものである」なんてェことは、どうでも良かったんです。それよりも、「俺たちみんな、得意になりたいよネ」とか、「自分より出來ない學生見つけて安心したいよネ」といったことを、集まったひとたちと確認して共感したかったのです。(そして私の話は共感できるものだったから、學生たちに支持されました。)
 すると、私の出した「例話」は、実は「例話」ではなく「言いたいこと・そのもの」であって、逆に一見「テーマ」「内容」とも思えるようなお題目は、ほんの「お体裁」だったことになります。
 そうやって考えてみれば; 「アキレスはライオンである」なんていう「レトリック」と呼ばれる表現も、「アキレスは強い」とか、そんなことを伝えたいのではありません。決してそうではありません。
 「アキレスが強い」ということを伝えたければ、「アキレスは強い」と言います。「アキレスは強い」と言わないで、「アキレスはライオンである」と言う人がいたら、その人は「アキレスはライオンである」ということ、そのものが言いたいのです。

3.
 しかし私は、韓國語の文を飾る細かな技巧は全然知りません。そこで技巧的な「比喩」などは一切使うことができませんでした。
 それでも私のハナシが成功した理由に、文章作成における「技巧」が大いに影響していると思うのです。言葉を知らないのに技巧を用いることが出來るのか……という逆説を痛感したワケです。そのココロは、きらびやかな表現は一切知らなかったのですが、文の構成自体にレトリックを多用したのです。
 たとえば;
 「俺たち、自分より出來ない學生見つけて安心したいよネ」ということについて聴衆の共感を得るために、私は自分が牧師であるということを伏線として準備しました。そして「伏線」の効果を最大限に発揮させるために、ハナシの冒頭では「牧師」というものを「自分より出來ない學生見つけて安心したりするようなことは絶対にあり得ない人物」のように印象づけようとしました。
 それが成功したのですが……; すると、「牧師というものは、自分より出來ない學生見つけて安心したりするようなことは絶対にあり得ない人物である」というハナシは、後のより主要なハナシのために用いられた「レトリック」と言えそうです。
 その「牧師というものは……」という文は、「言葉のアヤ」と言われるような技巧を用いていない、ただの「報告文」でした。それでも、まずハナシの前半に「報告文」を入れていること自体が、全体構成として「レトリック」です。さらに、直接「牧師というものは、自分より出來ない學生見つけて安心したりするようなことは絶対にあり得ない人物である」と断言文で意見を述べたのではなく、他の事柄でそう印象づけようとしたのです。  「レトリック」とは、「同じこと」をどう効果的に「言うか」という技巧ではありません。「聴き手を最終的にどうしたいか」という目標のために、言葉をどう配列するか、という文章作法の基本であるように思えるのです。

4.
 ですから「伏線」も、何物かを知らせるための「ただの伏線」に過ぎなかったとは思えません。「伏線」は、確かに何物かの伏線ではあるのですが、伏線であると同時に、それが主な主張でもある……という、不思議な印象を受けます。
 でも考えてみれば、その方が当然です。人間という有機体が、背後にいろいろなイメージを担っている「言葉」を選び、用いるのですから、なぜその「單語」「例話」「伏線」を選んだか、とても自覚しきれない理由がココロの中にあるのです。「言いたいこと」とは抽象的な「内容」ではなく、選んで語っているひと言ひと言全部なのです。
 そのため、たとえ語彙が少なくても楽しく語ることも出來たし、聞く方にも良いものだったのです。
 ただしそれには「言葉を選ぶ」という多大な準備と計算とカンが必要でした。さらに「準備」は事前にするだけでなく、当日の様子を見てアドリブを入れたり間をとったりということを、講壇の手前でも講壇上でもやっていました。
 いっぽう礼拝説教では、「マジメな原稿」を作っているので、これだけの「準備」をしていません。それがヘ勢が上がらないのでしょうか……。


報告#4おわり





前画面上のページトップページ先画面