《目次》
凡例
T.挨拶(1-7)
U.ローマ教会との交流の意味(8-15)
V.福音の力の紹介(16,17)
W.神の義に対する神の怒り(18, 19)
X.自然的啓示とそれに反する偶像崇拝およびその結果(20-32)
T.挨拶(1-7)
A.逐語訳
タイトル:ローマ人へ、コリントにて;
1a:パウロ、キリスト・イエスの奴隷、 1b:使徒へと召されて神の福音へと選ばれた。
2 :(福音は)予約である、聖なる書物の中で彼の預言者を通した。
3 :彼の子については、肉によればダビデの種から成った、
4a:聖なる霊によれば力にあって神の子と決められた、死者の復活から、 4b:あなたがたの主のイエスキリストの(ことについては)。
5 :彼を通してわれわれは、恵みと、全ての民に彼の名のゆえに信仰の従順へと(向かわせる)使徒職を得た、
6 :あなたがたイエス・キリストの招かれた者も、それの中である。
7a:ローマにいる神に愛されている全ての者、 7b:聖へと招かれ、 7c:あなたがたの恵みと平和があなたがたの父なる神と主イエス・キリストより。
B.黙想@
(省略)
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C.本文批評
タイトル:p46にはタイトルがない。Sin、A、B*、C、D、Ψが「ローマ人へ」、B1、D1が「ローマ人へコリントより」、後代の写本に16:1の固有名詞をとって「奉仕者フェベが書いた」を加えるものがある。
1a:Sin、A、G、Ψ、33、1739他多数派本文は、「イエス・キリスト」。
3 :写本は極めて安定しているにもかかわらず、「成った」を後代(16c)に敢えて「生まれた(gennwmenou)」にしているものがある。
4 :後代ラテン語訳でovrizwに代わってproorizwがあり、神的予定を暗示する。
7a:Gは「ローマにいる」を略し、「神に愛されている」「神の内にいる」。オリゲネスもローマを略して「神の愛の内にいる全ての人」と注釈する。これによって、本状は個別具体的な手紙でなく公同的な書簡となる(15本文参照)。シリア語訳の中には恵みと平和の語順を入れ替えるものがある。
D.語彙
doulo"(1)奴隷。新約中では息子(Jn8:35; Ga4:1)、自由人(1Co7:20ff, 12:13; Ga3:28; Eph6:8; Co3:11; Rv6:15)、友人(Jn15:15)との対比で語られる。それらの中ではパウロ自身が奴隷であることを否定しているものもある。パウロにおいては自由なキリストの子となったものは、神(Rm6:22, 7:25, 1Th1:9)、キリスト(Rm12:11, 14:18, 16:18)、義(Rm6:17ff)に対して仕える者である。旧約中では1Ch6:34、2Ch24:9、Neh10:30、Dn9:11でモーセを「神の奴隷」と称び、むしろ尊称。当Rm1:1については、A.Weiserは旧約のdouloli qeouを踏襲した自己表示法よりもむしろモーセに倣った名誉称号とする。Weiser←Gnilkaは、Php2:6ffキリスト賛歌中の「神の僕」は「神に対する奉仕者」ではなく「奴隷状態としての人間存在」に卑下したことを意味するとしている。
Cristo" VIhsou"(1)キリスト・イエス。この語順は特にパウロに独特ではないし、イエス・キリストとの意味上の差異も感じられない。新約95回中真正パウロ書簡に46回、福音書にはないのが目立つ。これに対してVIhsou" Cristo"は新約135回、真正パウロ57回。書簡別の使用頻度も全体の比率を反映している。2Coのみ極端に「イエス・キリスト」に偏る。
klhto"(1)招待された。10回中7回がパウロ。パウロおよびJd、Rvは忠実な信徒とされたと同義、ただしMt22:14は招かれるのみでは選ばれたことにはならない。食卓への招待が背景にある。旧約聖書では、特に律法で神のもとへの召集、さらには召集された集会の意味で用いられる(Ex12、Lv23で11回、Nm28)他は、前後の預言書のみ5。
apostolo"(1)使徒、伝令。奴隷とどの程度対として書かれているかは分からないが、主人に対しては伝令に過ぎないものの伝える相手には主人の権威を代表する。そしてその権威は主への絶対的な服従に依拠する。パウロはナザレイエスに従ってはいないが復活のキリストに出会って者として自己を使徒と規定し、対象を限定しつつ(1Co9:2)も使徒としての権利(1Co9:5)を主張する。しかし権利の証拠は弱さの中で啓示される(2Co12:9f)。
proepaggellomai(2)予約する。epaggellomai(約束する、承諾する、世俗ギリシア語では告知する)に接頭辞proを付した。予約するepaggellomaiはユダヤ教において「救いの約束」の意味を得、新約では原則として神のみがその約束を担う。
orizw(4a)定める、決める、宣言する。新約8回中6回がLk文書、7回が主語に神をとるため神の救いの計画を表わす。当該箇所も含め4回がイエスについての神の定め。当該箇所をG.Schneiderは即位就任させるの意味にとる。パウロに馴染みのない語で、当該箇所がパウロ以前の告白定式を下敷きにしていることを示す。
E.釈義
1.文脈
ギリシア文化での手紙の一般的な形式(差出人から名宛人へ祝福を送る)が用いられながら、通常の形式を大きく逸脱して差出人、名宛人の属性が部分的に詳細に示され、されに福音と使徒職についての詳しい説明がなされる。差出人、名宛人が詳しいのは二つの理由で説明され得る。ひとつは1Co、Gaと同様にパウロ使徒職を弁護する必要からであり、もうひとつはローマの教会と面識がないことである。この両者は必ずしも排他的ではないが、後者が強調される場合は前者の理由は1Co、Gaと比してその深刻さが減じられる。Dunnが前者を強調するが、Barrett、Cranfieldは前者を全く問題にしない。RmをGa等と同様に見なして良いかDunnの主張は疑問が残る。「異邦人の使徒」を自認する語調にもGaのような使徒職弁護の意図はあまり感じられないばかりか、その使徒職はキリスト者一般(一人称複数)に恵みとして与えられている。福音についてはパウロ以前の告白定式を下敷きにし、使徒職については「異邦人の使徒」たる自己理解をもって全く独自に、どちらも差出人と名宛人の関係を取り結ぶものとして説明され、手紙全体のテーマを予示する。
2.逐節
1a:他の書簡と同様に、回心後はパウロはユダヤ名サウロを用いない。他のパウロ真正書簡と異なり、ただパウロ一人の名で出される。旧約にある「神の僕」を排して敢えて「キリスト・イエスの僕」とする所に、キリストを主と告白する立場が明示される。キリストへの奉仕者である卑下の面と、奉仕者に選び出された名誉称号に近いニュアンスと双方を表現したものであろう。 1b:召された時点でそれは他との明確な区別(aforizw)を意味するが、それは福音を目的(eis euaggelion)にした召しであり、選びである。「福音」はほとんど(23/24)動詞形でではあるが旧約以来の伝統であり、待ち望んでいた勝利の告知である。
2 :そこで、福音は旧約中に預言者(20/24残りはPsに3、1Chに1)によって予約されている。「彼の預言者」は広義に「神の律法と預言者(すなわち聖書)」と解することも出来るが、福音は旧約時代ではあくまで将来(律法、諸書の時代でなく預言者によって示される時代)のものであり、メシアの出現を待たなければ成就され得ないものである。従って、どうしても予約(pro-)であるし、「預言者」のみを特定しているともとれる。
2-4:福音についての説明を自己紹介の中に挿入している理由は不明だが、Dunnは既に一般化されている信条定式を用いながら旧約信仰とキリスト信仰の連続性がパウロの自己同一性と関係あるものであるために入れたものとする。読者のパウロ使徒職に対する懐疑、批判に対応するためとする動機付けについては上の文脈の項で述べた通り疑問が残るが、キリスト教信仰がパウロもしくはイエスによって新興された宗教ではなくユダヤ教の神信仰を受け継ぐものであることがRmを通じた通奏低音になっているとすることは正当であろう。
3-4:CranfieldはNestle-Alandに反対して、2と3,4を区切る。しかしいずれにせよ福音については@神の福音であること(1)/A聖書に預言されていること(2)/B御子についてのこと(3)の三つが言われている。神の子キリストの属性が3の後半と4で、肉と霊の両面から語られる。
3αキリストが神の子であることは、パウロ以前に教会では確定していた信仰ではあるが、この手紙の冒頭で、パウロの立場はユダヤ教とは相容れない形で決定的に区別される。 3β:しかしイエスの神の子性については、自明ではない。パウロはイエスをダビデの子とする。ダビデの子であることで、待ち望まれたメシアと同定され、旧約ユダヤ教との連続性が示される。ただしそれは「霊」と対立する「肉によれば」の判断である。「肉」は「肉欲」等に代表されるような否定的価値を示すパウロ的なものではない。もっと一般的(ユダヤ教的)に有限性を前提としている。パウロは他で「ダビデの子」を肯定的に用いることはない(第二パウロで2Tm2:8)ことも、古信条の流用を示す。ダビデの子であることだけでは神の子性を確証できないが、その欠点こそが真人性を示す。
4a:これに対立し、霊による定義がなされる。「死人の復活によって(ex)」が原因を示すか、時間順序を示すかは決定できない(Dunn、Barrettは前者にとる)。しかしG.Schneiderのように、復活の後にイエスが初めて神の子に即位就任したとすれば、聖霊がイエスの上位に位置し、イエスを神の子に引き上げる力を持つことになり、養子説に傾くため、後代ラテン語写本がこれを嫌ったことが理解できる。そこで、これはパウロの理解とは明確に一線を画すパウロ以前の定型文であり、キリストの先在性やキリストと聖霊の関係の整理はパウロの時代において整理されて行った可能性が強くなる。従って、当節がその後のキリスト教正統教理と矛盾することを容認することによってこの定型句に最古のキリスト論の痕跡を認めるKaesemannは、ラディカルではあるものの説得的である。ただしKaesemannを採るならば、パウロ自身のキリスト論と異なる古信条をパウロがそのまま採用した理由が問われなければならない。Dunnは3αの「神の子について」と4bの「主称号」によるキリスト論の囲い込みを指摘する。Kaesemannは、この囲い込み構造によって旧キリスト論をパウロが(あるいは無意識に)訂正したとするが、仮にその通りだとしてもパウロの意図が十分に成功しているようには見えない。手紙全体の整合を損ねることに対して無意識に訂正したに過ぎないとするのは説得的でなく、「異端的古信条の採用」には謎が残る。Barrettはpneuma agiwsunh(NT中当該箇所のみ)をpneuma agio"と区別して「聖霊」ではなくイエス・キリストのうちの霊ととることで古信条とカルケドン正統信仰との整合を取ろうとする。真神真人両性の教理を保持する前提では、4aからはただキリストが復活して神の右に座したという以上は読むことができない。「死人(pl.)の復活」がイエスのことというよりも一般的なものとして語られていることから、Dunnは終わりの時の復活の先取りを示唆しているとして、ここに最初期の信仰の反映を見る。その場合、復活がイエスを神の養子となった原因とはしにくくなり、イエスに対する定めが創造以前からの神的予定とすることとの矛盾は小さくなる。しかしキリストがいつから神の子であろうと、ナザレのイエスの時代はキリストはわれわれにとって力無き者であった。死者からの復活によって初めて力ある神の子であることをわれわれ人間が受けとることが出来たことは確かである。 4b:主称号は、1aの「キリストの僕」との対比でみれば明らかにキリストの主権性を示すもので、祭儀的な意味合いは薄い。いずれにせよ、福音(1b)とはイエスそのものであるとともに、イエスが主であると告白し得ることである。
5 :キリストを通して得たものについて、恵みと使徒職を並列させているのが特異である。恵みとは、特定の事物ではあり得ない。有限性に支配された人間にとっての究極的な救いとはなり得ないからである。従って、恵みは神の人間に対する包括的な業であり、人間の存在を無限性へと再創造するものである。この恵みは、「キリストを通して」とされていることから、使徒職は、キリストの贖いや力によって与えられたものでではなく、神の働きへの参与を表わしているが、われわれの存在自体が作り替えられることから言えば、当然である。そして参与である以上、それは神の業への参与者すなわち使徒である。使徒職を得たのは一人称複数であるが、同労者は特定されない。パウロはキリストを通した神の再創造を、個人的なものではなく神対人間のものと見ている故とすることができるだろうか。神の再創造への参与は、そこで必然的に伝道宣教の業となる。この普遍性は、イスラエルの信従でなく全ての民の信従を目指させる。それはイスラエルの信従に関心を集中させていたパウロのキリスト教への回心体験と関係するであろう。
6 :前節の神の再創造の業の普遍的な広がりを、当節で名宛人に適用する。そこでローマの信徒は再創造の業の全体的な関係の「中にある」一部分となる。「イエス・キリストの(属格)招かれた者」が「イエス・キリストによって」とされていないことをDunnは指摘する。「彼らの中」とは13と併せて考えれば、ローマの信徒は救いに入れられる異邦人ということで、ローマ教会が異邦人教会であることが分かる。
7a,b:最後に型どおりに名宛人が示される。他の真正パウロ書簡(7c参照)と異なり、「教会」がない理由を、Dunnはローマの信徒集団が一教会の規模を大きく逸脱していることと想定する。 7c:これに反し、厳密に踏韻された挨拶定式は、1Th1:1における初期の形式の改良更新版として、他の全ての真正パウロ書簡とエフェソ書に見られる。Knox、Brueceらは、ギリシア的な挨拶定式で用いられるcaireinをcarisに置き換えることでユダヤ的伝統を付加したとしている。これに対し、Kaesemann、Lohmeyerらはむしろユダヤ教的な「憐れみと平安」を変形して挨拶の主眼を相手の魂の平安に留まらず終末論的な恵みの力の内におかれることにしたとしている。
F.黙想A
1.救いを福音として与えられたこと(説教
イ) パウロが福音によって救われていることを読者が実感するのは、自己をサウロでなくパウロと称ぶことである。名前の変更は過去の人格の否定にもつながる。それが受容できるのは、自己の存立根拠を過去の自己に置くのでなく、神の中に求めるからである。自分は誰でも良い、神の求めるままの自分で良いということである。この、自分が自分でなくても良いとまで思えることこそ救いである。そして、この救いに与った時、自分は自分でなくなるのでなく、名前にも左右されないほどの確固たる自分になれるのである。
ロ) 現代人も、神を求め、救いを求める。現代社会には多くの気晴らしがあるため、人は神や救いを求めることを忘れているという判断がある。しかし我々は我々自身の尊厳に反してまで王を求める存在である(1Sam8:4-10)。神とは、従うべき最終の王であり、われわれの支配者である(1:奴隷)。この世がこの王(主)を失っているのは、神がこの世の外のものであることからすれば、当然である。しかし規範を失った現代人は、自己の解放を求めながら、同時に秩序も求めている。そこで自己を解放し他者をその解放に仕える奉仕者にするような神をでっちあげる。我々は道徳主義を嫌いながら、他者に対しては道徳主義者であろうとする。したがって、王を立てても、その王が自分の立てた秩序に王が従わないならば、王を厭うのである。
ハ) 我々が救われるべきは、実は自分の立てた秩序を求めてしまう自分自身からである。多くのひとは、それを知らない(で自分には罪なしとする)ために、王を求めては王を嫌う循環に嵌っている。自己に縛られていることを知る者でも、その自分から救われようとすることは自己矛盾であり、不可能である。ひとが原罪を負っていると言われる所以である。ひとは、この罪から救われなければならない。この罪の行き着く先は死であるから、ひとはまたこの死からも救われなければならない。
ニ) パウロはこの世の最高の王(すなわち最善の宗教)を求めて、次善の王には妥協しなかったため、キリスト教を迫害することになった。その極点でキリストと出会う。パウロがキリストと出会うことが出来たのは、キリスト者を憎んでいたからである。すなわち、キリスト教を秩序ならざる(神でないものを神としている)ものとみなし、己の秩序を欲していた。その救い主待望の願いは切実であった。旧約聖書の時代にも、最も規範を失い、最も苦しんだ捕囚時代に、救い主が待望された。
ホ) しかしパウロのキリストとの出会いには、逆転があった。キリストとは、迫害を受ける王であり、神の秩序は全く未知の秩序だった。それは、自己の秩序を確立しようとするものではなく、それをひとのために放棄しようというものであった。王が奴隷になり、主が新生児になり、死者が復活者になったことが、全てこの逆転を表わす。
ヘ) 「キリストの苦しみに与れ」というのは、(苦行をした時にキリストのことが分かることが多いのは事実であるが)決して「苦行をせよ」ということではない。自己を罪人のために棄てたイエスを主とすることが救いなのである。
ト) 我々は、パウロ同様に選び出され召されているので、キリストを主とすることが出来ている。すなわち、パウロと同じ救いに入れられているのである。
2.福音を与えられた者は同時に宣べ伝えているということ(説教
イ) パウロは「恵みと使徒職を得た(5)」と言う。これを敷衍して伝道を信徒の義務に数えることは誤りではないが、伝道を強要される零細教会では、使徒職を恵みとは受け取りにくい。地上教会組織の存続のための人間からの強要に堕している場合が多いからである。しかし・それにしても、「信仰の従順」とは信仰がただ思想信条ではなく人間存在を方向付けるものであることからすれば当然である。
ロ) 信仰は神の業への参与であることは、キリストとの「結婚」に喩え得る。相互に人格が深まり合う結婚は幸いである。しかしそうした結婚生活は、相互に見つめ合うことではなく、外の何事かに相互の人格を注いで関わり合うことで得られる。そのような人格の注出と陶冶のない結婚は不幸である。人格がそれぞれ孤立し、共同生活に過ぎないものとなる。
ハ) さらに、幸いな結婚が向かい合う外の何事かとは、外の生きた人格(第三者)に関係する。その点で異邦人伝道に対してキリストと使徒とが共働することになぞらえることが出来る。夫婦一方の生死にかかわる病気なども、相互の人格を高めつつ近づけるものになり得る。しかしそれが第三者と関係しない(自己完結している)場合には、最終的にはヒロイズムに向かい生産的ではあり得ない。第三者に愛の注ぎ出しが起きてこそ、正当な生にあっての向上となる。
ニ) この点で、パウロがユダヤ人への約束を全異邦人への救いに拡大して理解した(5)のは正しいし、キリスト教は異邦人への伝道が始まった時に正常なものとなり、その結果成功したのである。
ホ) 幸いな結婚は、敢えて第三者を巻き込んで何かを行なうものではなく、第三者を避けてもかかわらざるを得なくなるものである。したがって、特に折伏活動を行なう必要はない(即ち一般に言われているようないわゆる伝道活動を強要されるものではない)。第三者とのかかわりが出来た時に、自然と夫婦としてそれに対応する時、人格の陶冶向上があるに過ぎない(即ち他者とのかかわりにおいて自然に証がなされているのが伝道である)。ただ、キリストとの結婚が共同生活(思想信条に過ぎないもの)に堕しているとしたら、禍である。この点専門の伝道職に召されたパウロは、共同生活では生活できず、結婚生活にならざるを得ない点で、大いに幸いなのである。
3.伝道者であること(次項の参考として);
イ) パウロは自己を使徒と位置づけており(2,5)このことは回心後のパウロの自我存在の根拠となっている。パウロにとって、召しと選び(差別化)は、ファリサイ人としてキリストを迫害した時からダマスコ途上の回心へと、二重の背景を持つ。ファリサイ人としての選びは自己を神に近づける努力であった。それに対して神による一方的な選びの体験は、努力向上ではなく聖化(agiazein、受動的に取り分けられること)としての差別化である。
ロ) 福音を宣べ伝えること、ひいては信仰を保つことは、ひとに対する優越感と無関係ではない。一般に「優越感」は倫理としては否定的に捉えられがちだが、優越感は偽善とは異なる。偽善、虚栄心は、むしろ劣等感から出る。優越感とは差別化意識であり、劣等感と同じく自己、自我の根拠である。そして劣等感が生み出すものは、多くの場合妬み、嫉みであり、良くても自己を高める努力である。したがって劣等感からは自己中心的な向上心しか生まれない。優越感が、自分を楽しませることに向いた時、弱者に対する差別になる。しかし優越感が、愛によって、他の弱さを痛みに思うことに向いた時、自分を注ぎだして相手に仕えることに繋がって行く。
4.キリストと自己〜パウロの自己認識とキリストの告白定式(説教
イ) パウロはキリストを自分の主と同定した(1,5)。パウロに信仰を与えたのは神であるが、信仰を告白した時点で、その与えられた信仰が実現した。こうしてキリストによって自立することが、この世の命を超えた永遠の自我を確立する唯一の道である。
ロ) パウロのかつてのメシア待望(3)は、ダビデ王朝の復活をしか希望しない、イスラエルの劣等感の裏返しであった。ダビデは確かに救世主的であった(1Sm7:12ff他)が、それは神の主権性を回復したという限りにおいてのみである。しかし後にこのダビデが神格化された(Mk12:35ff並行)ことで、イスラエルはルサンチマンの上に宗教を建てることになる(Dt7:7f)。パウロのイスラエルの民としての自己認識は、神の国を待ち望むメシア待望に生きているという点では正しい。しかしそれは、他者との比較で自分自身を作り上げて行く自己同一性の獲得であり、それは本来の神に作られたままの自分ではない。自己の主権性が人と神との間で引き裂かれた不幸な状態である。
ハ) しかし他者との比較を必要としない、他界からの自己規定があった。それは、この世の外からの働きかけでありながらも、パウロの自己が内奥から現われ出る形であった両義性を有する点が、キリストが復活によって神の子としての意味が確立された(4)ことに類比できる。すなわち、キリストは時間的に復活後に神の子になったのではなく、天地創造の初めから神の子であったことが、復活によって「力ある」しかたで実現した(意味を確立した)。それは我々の自我が外側に表出した時点でそれが以前からの自我の本質であったことが明らかになるものの、外側に表出しなければ自我としては存在しないことに似る。そして、ひとが神の似像であるということ(Gn1:27)は、本質において世の初めからの神性があり、それがただキリストによってのみ表出するということである。
ニ) パウロの古告白定式の採用(3,4)は、著者の意図としては多くの注解者の指摘どおり旧約信仰の連続性(2)とキリスト教信仰の新規性(4)を両立させようというものであろう。しかし旧約信仰を「肉によれば」として廃棄はしないまでも克服している、その克服は、信徒パウロにとっての意味としては、個の確立を他者との比較という相対的なもので行なうことから、普遍絶対的な基礎を与えられたという変化である。
5.憐れみを求めることから、恵みを確認することへ;
己を己の主とするために外側に主を持ち得ない者にとっては、世界は有限性に閉じており、死をもって滅び去るよう定められている。そのため平和がなく、そこからの救いは、仮の主である己の力ではあり得ない。抜け出そうとしながら己を主とすることに留まっている者は、憐れまれる存在である。しかし憐れみはキリストによって実現した。われわれが救い主を信じた後は、主の恵みによる神との平和、そこから導き出される生活上の平和を願うものと変わる。
U.ローマ教会との交流の意味(8-15)
A.黙想@
1.感謝(8-10)
パウロの感謝は文通による人格的邂逅に由来する。その邂逅は信仰を媒介として起き、未だ見ないで互いに影響し合う関係を作った。
2.分かち与えるもの(11-13)
ここには、パウロがローマの信徒へ与えられるべきものとは、パウロの所有物ではなく、所有しないということであるという逆説が存在する。それがなければパウロとローマの信徒の間には明確な上下関係が出来てしまうが、それは根拠のないものである。所有しないということを与えるが故に、与えれば与えるほど豊かになるという逆説も可能となる。
3.責任(14,15)
責任は権威に由来するもので、権威がないところに責任は存在し得ない。われわれは責任を負うが故に生きているのである。パウロの担う責任は、朽ち滅びる権威にではなく神の権威に由来するため、パウロの生は確かなものとなる。
B.逐語訳
8 :なによりもまず、神に感謝している、イエス・キリストを通して、あなたがた皆について、なんとなればあなたがたの信仰が世界の全てで宣されているから。
9a:なぜなら私の証は神である、 9b:私の霊において神に仕えている、彼の御子の福音へ、 9c:ちょうどいつもあながたがの思い出を起こしている。
10 :私の祈りの時はいつも、なんとかいつか神の熱望においてうまく行くようにと、あなたがたの所へやって来ることについて。
11a:なぜならあなたがたを見たいと希求している、 11b:何か霊的な賜物をあなたがたと与え合うために、あなたがたを強める方向へ。
12 :が、それはあなたがたにあって共同奨励である、あなたがただけでなくわれわれもである互いの信仰の中を通して。
13a:が、あなたがたが知らないことを望まない、 13b:兄弟たちよ、 13c:あなたがたの所にやって来るようしばしば計画した、 13d:そしてそれから妨げられている、 13e:あなたがたの間で何か実りを得るため、ちょうど他の異邦人のように。
14a:ギリシア人にも野蛮人にも、 14b:知者にも愚者にも責任である、
15 :それで私の熱心はローマにいるあなたがたに宣教したい。
C.本文批評
8 :Sin*では「イエス・キリストを通して」を省略する。省略の理由も他の写本の支持もないため事故的脱落と見なさざるを得ないが、キーワードの脱落は不可解。「……ついて」にDc、Ψと多数派はuperを用いる。
9b:D*、Ψが「私の」を略す。
13a:Dは「考えたくない」。
15 :D*は「あなたがたの間で」。後代に「ローマにいる」が欠落するものがある。
D.語彙
sthrizw(11b)強める。特に、確固たる態度を保つよう強める。福音書ではLkのみ、特に9:51でイエス自身がエルサレム行きの確固たる決意を固める。パウロは16:25、1Th3:2, 13でも信徒同士の励ましに用いるが、2Th、1Ptでは神が信徒を強める。
metadidwmi(11b)分け与える。単なるdidwmiよりも分け合うイメージはあるものの、明らかにパウロからローマの信徒へという方向性はある。
carisma pneumatiko"(11b)霊の賜物。すべての賜物は霊的なものであり(1Co12:3ff)パウロは反熱狂主義からこの両語を結んで使うことを他では避けていることをKaesemannは指摘し、「霊的」をRm15:27と共に説教に限定する(本釈義ではこれに反対)。
carisma(11b)賜物。神の賜物は、パウロ書簡では、定義的には主キリスト・イエスによる永遠の命(Rm6:23)と言えよう。しかしそれは罪とは異なって多くのひとに及び(Rm5:15,16)、(Rm11:29)でありながら、ひとへの現れ方としては多様性(Rm12:6; 1Co7:7, 12:4, 9, 28, 30)と優劣がある(1Co12:31)。「イエスは主である」との告白に導く霊によって与えられたもので(1Co12:3,4)、多様(1Co12:8ff)ではあっても務め(5)、働き(6)として互いを益するものである(7)。パウロ係累では、長老按手の時に預言によって与えられ(1Tm4:14; 2Tm1:6)、互いに仕え合うための道具にもなり得る(1Pt4:10)。福音書その他にはない。
kwluw(13)妨げる、禁じる、やめる。神律、自律両方に用いられる。
barbaro"(14)野蛮人。「ギリシア人」の対概念で、ギリシア語を話すローマ市民が他の全ての民族に対して優越して文化的であるという意識が語の背景にある。ただし新約中の用例では他にAc28、1Co14に2回づつあるが、いずれも特に文化度の優劣を主張する意図はない。都会人が善悪両面あるのを知っていて「田舎のひと」と呼ぶ程度のニュアンスか。
sofo"(14)知恵、知者/anohto"愚かな。知者の意味でも天的知恵を持つ者いう場合(Mt23:34; Rm16:19; 1Co6:5)と、一般的で天的知恵と対立する知者を言う場合(1Co1:19, 27; 3:19f)と両方ある(1Co3:18は両方の意味で)。パウロ以降はもっぱら善意に用いられる(Eph5:15; Jms3:13)。イエスも人間を知者とそうでない者として分類する(Mt11:25; Lk10:21)。それに比しanohto"は類語afrwnも含めて当然のことながら良い意味はない。知恵のあることは神の前で長所にならない場合があるが、愚かなことは神の前でもひとの前でもそれ自体は長所でない。
ofeileth"(14)負債、義務、責任、債務者。新約7回中福音書3回は負債、債務者の意。他はパウロで責任。Rm8:12では義務の内容はただ「肉に従う義務でない」と否定形で語られるのみであるが、他者に対するものではなく自己の(霊に従う)義務を言っているものと思われる。他は一般的な意味での「義務」。
E.釈義
1.文脈と構造
ギリシア式の挨拶文(1-7)では、キリスト論および異邦人伝道の視点からの救済論が、手紙全体の主題にかかわるものとして示唆された。1:16から救済論が神学的に展開される。本段落は、その橋渡しの役目をしている。
初めにパウロとローマの教会との個人的な繋がりを抽象的に感謝として(8,9)、次に具体的に訪問の希望として(10,11)述べる。そして訪問の目的や理由(11-14)を示した後、それをまとめた句としてテーマである福音宣教に戻り(15)、次節以降の本論に繋げる。かような明確な構造を持ち、また明確な役割を担っているものの、そのような戦略的意図に基づく叙述というよりも、訪問を希望することを述べていることから自然に述べられたものという印象を受ける。
2.逐節
8 :「なによりもまず」の語で、神に対する感謝がパウロ自身の信仰生活の中で最優先すべき事として語られる。以下に言及する他の書簡に見られる通り、名宛人の信仰を神に感謝することはパウロの手紙ではごく一般的であり、それがないGaの方が異様である。パウロの名宛人についての感謝は、いずれも比較的抽象的に相手がキリスト者であることを感謝するものである。特に1Co1:5-9は信仰生活上問題のあるコリントの教会が、それでもキリスト教に留まっていることで、「最後に非のうちどころのない者」にされる希望のために感謝している。Php1:5fも感謝の理由が抽象的で1Coに近い。それに比し1Th1:3、Phm5ffは、明示されてはいないものの相手教会の信仰に肯定的な評価を加えていることが推察される。Rmに限っては、何ら具体的根拠のないままに肯定的な印象を持って感謝しているように見える。5,6の異邦人伝道の視点に立てば、世界の首都たるローマに福音が根付いていることは今後の宣教を有利に進めるものではある。しかしローマを訪問したいと感情的には切望しながらも一切を御心に委ねている(10,11)ことからすると、有利/不利と感謝とはそぐわない。信仰が「宣されている」の語は、宣伝する者の意図にかかわらず(Phl1:17,18)ただ結果として宣伝されるようにいわば無表情に語る意味で用いられる(1Co2:1; 9:14; 11:26)ことから、ローマ教会の努力、意図が称賛されているのではなしに、ただキリスト教会であるという結果のみが評価されている印象を強めている。
9-12:8を以上のように読めば、9の「なぜなら」は10の理由を先行して述べていることになる。パウロは人間の意図にかかわらず宣べ広まっているキリストへの信仰に、ローマ訪問の願いを強めた。従って11,12(13)に書かれた訪問の目的は、最初の動機ではなく、先に訪問したいという願いがあり、行くにあたって目的を自分の中で整理したものである。9bは証明してくれる神の性質を修飾的に述べるものであろう。新共同訳はパウロが神に仕えていることを主張しているように受けとられかねない点、翻訳が不適切に思える。
9-10:パウロが名宛人を信実に想っていることについて、「神が証明する」という(論証不能であるという点では)無力な弁明はPhp1:8に似ている。Phpは論敵の中傷があったことが想像されるのに反し、本書簡ではそのような論争的な傾向は少ないため、さらに唐突な印象がある。この手紙以前にローマ訪問の願いがローマ宛に送られていて(1:13, 15:22)それが実現していないことを弁明しているとするのが自然である。そうだとするとこの部分は全体の主題に関係の薄い、非常に個人的な弁明であることになる。しかしこの弁明は、パウロの訪問は個人的な欲求でではなく、「神の熱望」においてなされるべきものである(10)ことを前提としていることを強く示す(cf.15:30)。個人的な欲求から出ることは信仰を実現しない点で、行為自体は善行であったとしても、本質的に信仰とは矛盾対立するものである。
11 :そのように神の僕として専ら神の御心に従う決意をしているパウロが、しかしローマの信徒たちを「見たいと希求している」という情動的な思いを抱き、それを表明することになんらの躊躇もしていない(Dunn)。訪問の目的は、賜物を分かち合うことだが、その賜物が何かを一切特定していない。これはパウロにとって霊的賜物とは本質的に分かち合うことによって実現するものである(1Co12:7)ため、分かち合う対象物ではなく分かち合うこと自体が目的なのである。それは、神からの賜物が愛だからであり、愛は「見たい」と情動的に希求させ、また命さえも分かち合いたいほど「いとおしく」思わせる(1Th2:8)ものだからである。
12 :前節(5,6も)で一方的にパウロが賜物を分与してローマの信徒を強めると言った後、一転してただちに相互の励ましと言い換える。Althaus; Nygren; Brunner; Lietzmannらが謙遜と、Kaesemannは葛藤と、ClanfieldはKarvinを引いて初心者であっても全ての信徒が賜物を与え合うことが出来るとする。与える印象は修正されるものの内容自体を修正している訳ではない。そこで信仰者は、相互に賜物を分与して強めることが、自分にとっての励ましでもあるという意味にとり得る。
13 :ここで再び9,10の弁解に還る。聖霊による妨げや「神の御心(10)」を、現代のわれわれの感覚よりもずっと素朴に人格的にとるならば、御心によって妨げられてきたとする弁解が読者にも説得力があることになるだろう。実りを得るとはBarrett、Cranfieldはそれと共に新たな改宗者を得ることを挙げる。しかし前節との繋がりから言えば「慰め」を得るとする方が自然であり、またRm6:21,22; 7:4; Gal5:22などからも、実りとは信仰の深まりが実際の行動に表われることである(Dunn、Kaesemann)。1Co1:17からも、回心者の獲得はふさわしくない。Dunnはローマ訪問の希望をパウロの世界宣教戦略と強く結びつけようとする。この見解は緒論的視点からは妥当に思われる反面、15:22でイスパニア訪問を主たる伝道先に思い定めていることなどを見ると違和感が残る。宣教戦略はあるものの、ここでの情動的な訪問希望は、それにかかわらず強いものであるように感じられる。
14 :この節は「全てのひとに対して責任がある」の意に過ぎないが、次の二点がここで初めて示されるパウロの考え方がある。第一は「全てのひと」とは具体的に@「ローマ人とそうでないひと」、A「知者とそうでないひと」という分類を想定していること。第二は宣教を「責任」という概念で考えていることである。
14a:パウロは他の箇所(Rmで1:16を含む5回、1Coで4回、Gaで1回)では人間を「ユダヤ人/ギリシア人」という捉え方をしており、1:6、1:13でも手紙の受取人を「異邦人」と同定している。ひとを「ギリシア人/未開人」に分けて捉えるのは当該箇所のみ。パウロはこの分類を肯定しているものの、マルタ島で「未開人」に助けられた経験から(Ac28:1ff)、ギリシア人でなく未開であることを否定的には見ていない。
14bα:それに比し、ひとを世俗的に「知者/愚者」で分けるのはパウロにとっては一般的(1Co1:26f, 3:18ff)である。ただし、そう分類はするものの、世俗的な知者に価値を置いている訳ではないことは、イエスの人間分類とその価値付け(Mt11:25; Lk10:21)を踏襲している。パウロは、名宛人自身の人間分類をそのまま用いて手紙を理解しやすくすることを意図したのであろう。それは第一には、知者であり文化的であることに人間の根本価値を置いていないから言えることである。しかしここでそのような分類を示すことの意味は、福音宣教の際には人間の民族、国籍、性別、職業などの諸属性は一切問題にならないことを示す。それよりもむしろ文化的な価値観、人間洞察の知恵が福音宣教の際に影響を及ぼす。文化的価値観と知恵の有無によって宣教戦術は変化すべきであるものの、神が救いの対象としているのは、その双方ということである。宣教戦略上もっとも重大な人間の属性である「ユダヤ人/異邦人」の別が問題にされていないのは、手紙の受取人がもっぱら異邦人に限られ、またパウロ本人は異邦人に対する伝道者であることが既に宣せられている(5,6)からであろう。
14bβ-15:神が救いの対象とする全ての者に対して、パウロが「責任」を与えられていると宣言する。「責任があるから宣教を熱望してる」という、一見奇異にも感じられる論理が、パウロにとっての「責任」観を表わす。すなわち、責任は強いられた負担ではなく、恩恵として付与された意味である。既に教会を形成しているローマの信徒に「対して宣教したい」ととる困難を回避するため、Dunnは「ローマ教会の周辺に居るギリシア人や未開人に宣教する」という写本Dの理解に立つ。確かにRm15:20、2Co10:16からはキリスト者に宣教するとするのは矛盾するようにも思われるが、1Co15:1ff; Ga1:8ff; 4:13(特にGa4:13)からは、「福音宣教」では信徒に対する奨励と信仰教育も含むように思われる。
F.黙想A
1.感謝(8:説教
イ) 何について感謝するか、何(誰)に対して感謝するかで、ひとの生き方とその豊かさが変わる。パウロがローマ書本論の開始にあたって「何よりもまず」神に感謝しているのは、キリスト者の生き方と豊かさの性質を明確に示すものである。その内容は、何について: まだ会ったこともないローマの信徒の信仰が言い伝えられていることについて/ 誰に対して: 「わたしの」神に対してである。
ロ) パウロはローマ教会の信仰の優秀なことを感謝しているのではなく、ローマ人が信仰を得ていることだけで感謝している。まだ見ぬローマ教会にも感謝し得ることを、「全てのことに感謝すべき」といった倫理主義にとれば、福音は律法主義に変わる。「感謝」とは強要して生まれるものではない。パウロは、神の善意と愛に思い至ったために感謝が生まれた。
ハ) 感謝が生まれるのは、善意や愛に思い至った時であり、その最も成熟された形が、神への感謝である。生の豊かさは、感謝がどれだけ遠くまで及ぶか(他者の善意や愛のどこまでに思い至れるか)に依る。
ニ) 感謝できない義人よりも感謝に溢れた罪人の方がずっと幸いである。ローマ伝道は、パウロの畢生の願いに近かったはずである。己が義を追求していた時のサウロであれば、むしろ妬みを感じておかしくない。そんなローマ伝道がパウロの力なしに実現したにもかかわらず、個人的、地上的な利得はいっさい克服されている。この感謝は、自分の愛する者を自分以上に愛する者がいたことを喜ぶ時の感覚だろうか。すなわち、そうした愛が与えられていること自体が感謝なのであろう。
ホ) そこで後続の節は、「私だって愛しているんですよ」と弁明するほどプライドという重荷を下ろしている者の相手に対して心を許した弁明である(9-13)。パウロとローマ教会の間には、まだ会っていないにもかかわらず、そうした信頼関係が出来ていた。それはキリストへの信仰が一致していることのみに依るもので、パウロの感謝は神に対するものではあるが、必然的にイエス・キリストを通したものになっている。
2.シェア:分かち合い、分け前
イ) 日本では、現代ほど「分かち合い」が採り上げられている時代は少ないだろう。その理由は、一つは「分かち合い」が可能なほど生産財に余剰があること(@)、もう一つは物資の獲得所有だけでは満足できなくなり精神的な満足を求めるようになったこと(A)がある。さらに最近の不況の世では自己所有の安全が保証されないため、保険的な意図によるもの(B)もあろう。
ロ) 一般的にキリスト教会は、(被造物であるという)創造論に由来する倫理から「分かち合い」を勧める。その際上のAの精神的満足を動機付けにする。すなわち、「愛と分かち合いに生きた時、本当の(被造者としての生来の)幸いがある(感じる)」と説明する。他にB「自分も助けられて感謝した」ことや、@「これだけ富を得たのは神の恵みである」ことを「証し」の形で分かち合いの動機として提示する場合もある。いずれも論理的には不当ではないものの、キリスト論不在のためキリスト教独自ではない。そこで「キリストさまはご自身をお与えになったのですから」と付加するならば、そのつながりが明確で説得的でなければならない。キリストを模範の意味で持ち出しながら、分かち合いについては専ら創造論で説明するのみであれば、模範が律法主義化する危険がある。
ハ) 与えることは自己を削り、自己を損なうものであるため、無限には与えることが出来ず、従って余剰を与え得るのみである。余剰で与える物は、受け手にとっては単なる援助にしかならず、与え手にとっては辛い義務または偽善になる危険がある。ところが、「与えれば与えるほど豊に受ける」という逆説が実現するのが霊の賜物の分与においてである。
ニ) 霊の賜物とは、全ての信徒が与えられている物であるはずなので、次のものは否定されるだろう。すなわち、聖性がありそうな雰囲気/利他愛の実践/道徳的な完成……など。こうした通俗理解の拒否は、霊の賜物の分与が同時に相手からも励まされる(12)という実りが期待できる(13)ものであることからも支持される。
3.励まし合い
イ) われわれは、悩み苦しむひとの力になりたいが、解決し得ない事柄については励ますことが難しい。自己を犠牲に削れば助けられる場合は余剰部分を分け与えるまではできる(黙想A3-ハ)が、それ以上のものは与えることが出来ない。誠実なひとならば、本当に励まさなければならず、また励ましたい時にこそ、自分が偽善者であることを思い知らされる。
ロ) パウロがローマの信徒に会いたがっている(10,13)のは、力になりたいから(11)だが、決して現実の問題を解決しようとしている訳ではない(パウロはローマの信徒の担う苦悩を知らない)。力になる(励ます)とは、同時に自分も励まされることになる(12)ものであり、これが励ましの本質である。
ハ) われわれは自己を分かち与える時に真の幸いを得る者として創造されている。物質を与えようとする時、上のジレンマに陥るが、われわれが与えるべきものは、物質である前に、第一に霊の賜物である(11)。霊とは、人格の総体でありかつ人格内奥の中心である。それは他者から孤立して成立しているものではなく、隣り人に向かって開かれているもので、陳腐な表現ではあるが「人格と人格との真のふれあい」によって目覚めさせられるものである。したがって、霊が目覚めさせられるのは相互的なものであり、苦しむ者に対して力になることができると同時に、自分も霊的生(本来の生)を獲得しているのである。
ニ) 「聞き上手」と言われるような相談相手は、多くの場合たんに憂さ晴らしの相手になっているか、または自分で解決を見出す手助けになっているに過ぎない。それも有益なことではあるが、キリスト教プロパーではない。キリストが十字架にかかって罪を贖ったためにわれわれに可能になった励まし合いは、「聞き上手」ではなく「人格的邂逅」である。
ホ) それは具体的には自分を高い立場に保とうという自尊心を棄てた時に可能になる。客観的にはより悪質な敵に対して謝罪できたり、苦しむものと同じような自己の過ちを告白できたりした時に、人格と人格とが近付くのである。信仰の励ましとは、このように罪の告白をし合うことによる。
ヘ) パウロは、この信仰の励ましを励まし合うために、どうしてもローマの信徒と実際に会いたかった。物質的な自己犠牲は、悪よりも善ではあるが、この邂逅なしにはどうしても余剰の分配の域を出ない。人格的な邂逅をした後には、己の命も惜しくないものになる。なぜなら、その邂逅自体が、命であり、生きるということだからである。自己犠牲は、結果としてついて来る。
4.責任
イ) 責任とは自己決定ではなく、付与されたものである。それ故にこそ、責任はそれを負う者の存在意義を創出する。被造物である人間には神に対して責任があり(14)、その責任とは、神の律法を守ることである。ただしそれは文字に従うことではなく(7:6)隣人を愛することに集約される(13:9)。このことのためにわれわれは召されており、その点では野蛮人も愚者も(14)存在意義は変わらない。これは感謝すべき光栄である。
ロ) 反面、責任は努力目標ではなく結果の問われることでもあるため、われわれは責任を負う光栄を喜ぶことが出来ない状態に陥る。愛そうと努めはしても、愛せない場合があるからである。そこで多くの者は信仰を建て前にし、少数の模範的信徒も責任を努力目標にすり替える。「愛さなければならないとは分かっているのに愛せない」とは言うものの、ただし「愛さなければならない」を「結果を問われる責任である」という意味ではなく自己目標として「そうした方が良いとは分かっている」ということにしてしまうのである。
ハ) しかしどれだけ勤勉に努力しても、結果を問うことをやめるのならば、責任を自己目標に変更した=すなわち=付与された責任を放棄した状態である。その場合、敵のことを愛することは、最後までできない。「敵」が敵でなくなる理由を自己の中に求めている状態なので、相手の方針転換がない限り、せいぜい敵を我慢するに留まる。そして「愛そうと努力はした」ことで自己免罪し、みずから満足する。
ニ) これがわれわれ人類の罪と悲惨である。愛する責任を放棄したとは、すなわち神を放棄したのである。そのため、われわれは罰を受け、憎しみの中に置き去りにされた。
ホ) この惨めな人間に対して救いが開かれたのが、福音である。憎しみはひとの心を不当に支配する強大な力であり、その影響力の大きさの故に、われわれは自己欺瞞に逃げようとする。しかし悪魔から救い出されるには、ただキリストの御名によるしかない。憎む者はそこに留まろうとする場合が多いが、救いを求めたら、ただちに愛することは出来る訳ではなくても、愛の命令が回復する。
ヘ) パウロはこの救いを救われたために、愛のうちにおかれた。それ故に隣り人に対して働きかけないではいられない。そのため、御名を呼び求める集会に駆けつけたいのである。愛は感情的な快/不快以前に、まず霊の賜物を分け与える(11)人格の交流である。それをパウロは、名宛人を「ギリシア人/野蛮人」、「知者/愚者」という属性で分類する(14)ことから、相手人格に近付いて行く。実際に福音宣教は人間の他の諸属性よりも、こうした属性が大きく影響するため、この切り口がパウロにとっての接近法なのである。(それでもパウロの分類の根拠となっている価値判断は、受取人にとっては皮相的には傲慢にも思えるだろう。このような差別化が倫理的に許容されるのは、ギリシア人、知者であることに究極の価値を置いていない(Php3:5ff)からである。)
V.福音の力の紹介(16,17)
A.逐語訳
16a:なぜなら福音を恥じないから、 16b:なぜなら神の力であるから、信者全てに(対する)救いへの、 16c:まずユダヤ人に、そしてギリシア人に。
17a:なぜなら神の義がその中で啓示されている、信仰から信仰へ、 17b:書いてある通り、 17c:しかし信仰によって(いる)義人は生きるであろう。
B.本文批評
16a:「キリストの福音」としているもの(Dc、Ψ)がある(語彙参照)。 16b:「救いへの」をGが削除するため、ローマ訪問の願い(15)が神の力に押し出された結果のようにも読める。 16c:B、Gが「まず」を削除する。Metzgerの指摘通りユダヤ人の優位性を弱めることを意図したのであろう。その結果、福音を恥としない理由(16b)が一般論のようになり、発言者個人が救われているという力強さは失われる。
17c:Hb2:4の引用をLXXに従った「私の義人」がある(C*)。
C.黙想@
1.神の力と義によって成立する人の信仰と救い
イ) 16,17は二つの逆説的な宣言がある。ひとつは、福き音ずれの中で表わされているものが神の愛、恵み、憐れみ、赦しを予想するのに反し、神の義であるというもの。もうひとつは、全てのひとは、罪人であっても生きているにもかかわらず、信仰による義人が生きるとしていることである。
ロ) 信仰によらない義人があるのでなく、信仰によっている者が義人であるため、ekを「(信仰に)よって(生きる)」としても「(信仰に)よる(義人は)」としても結果は変わらない。正しさは人間が所有する要素、属性、本質ではなく神の属性だから、義人とは信仰によらざるを得ない。
ハ) ひとが正しくない時、「生きる」とは破壊を目指すものとなる。
2.福音を恥じないこと
イ) 「なぜなら」が三度繰り返され、論理的には繋がりにくいローマ訪問の理由と福音が救いへの導き手であることを結びつけるのが、この段落の主旨であろう。三段論法は、「信仰による義人は生きるから(17)、ローマ人へ福音を告げたい(15)」ということになる。
ロ) 一般に信仰告白定式とされる「福音を恥じない」を、ローマ訪問の願いの理由にしていることから、パウロにとってのローマの信徒との関係は、福音を恥じないことをアイデンティティとする信仰共同体である。
D.語彙
euaggelion tou cristou(16異読)「キリストの福音」は、Rmでは1:1、15:19で7回中2回、他に2回「神の福音(1:1、5:16)」。他のパウロ書簡は1Co9:12(=1/4)、Ga1:7(=1/5)、Phl1:27(=1/2)、1Th3:2(=1/4)、2Coの「福音」4回は全て「キリストの」を付す。
epaiscunomai(16)恥じる。主観的に、事象、人物等なにものかを恥じる。原始教団では信仰告白用語でomologew(告白する)の反対語。否定型で信仰告白に用いられた。一般的な意味での反対語kataiscunw(はずかしめる)は失望の意味もある。この語をパウロは1,2Co中で計7回、具体的な信仰生活の勧めの中では「はずかしめ」の意で用いるが、Rmの3回はいずれも信ずる者は神の約束の実現において「失望(することがない)」として用いられる(5:5; 9:33; 10:11)。原語aiscunomaiは、中動態で「恥じる」の他、受動態は「壊れる」。この反対は、docazw(讃美する)、kaucaomai(誇る)、megalunw(賞賛する)。名詞aiscunh(恥)にはdoxa(栄光、誉れ)が対応する。
dunami" qeou(16)神の力。ヘレニズムでは奇跡を意味したものを、Grunndmannによればパウロはユダヤ教の文脈で神の救済史的な歴史介入として用いる。
dikaiosunh qeou(17)神の義。パウロ書簡以外はMt6:33で「神の国」とともにひとが第一に求めるべきもの、Jms1:20でひとの怒りによっては実現しない、「神の国と神の義を求めよ」、2Pt1:1で「キリストの義」とともに、それによって信徒は信仰を与えられた。パウロ書簡に頻出。われわれの不義が反対概念として神の義を明らかにする(Rm3:5、10:3)。律法とは関係なくしかも律法により明らかにされた(Rm3:21; Ga2:21; 3:21; Php3:9)ものでイエス・キリストを信じる信仰によって与えられる(Rm3:22, 26; 2Co5:21; Php1:11; 3:9)、キリストが十字架にかかった今明らかにされたもの(Rm3:26)。神の国と義は同義(Rm14:17)。ユダヤ教では、人間が命を得るためには神の前で義でなければならない。
E.釈義
1.神の義
ギリシアローマ文化では義の概念は倫理的なものであるのに対し、ユダヤ教では関係概念と言われる。そこで義は人間が個人で持ち得るものではなく、義と認められるか否かという法廷的概念となる。しかしながら、ユダヤ教は義と認められる条件を律法遵守に見出そうとしたため、義認の条件はパリサイ派においては倫理性に、サドカイ派においては祭儀性に還元されて行った。しかし人間の義でなく神の義に着目すれば、神は一者でありながら完全であることから、人間との関係を完全なものとして回復する全能性を有することになる。この回復をもたらしたものがキリストであり、したがってひとと神の関係が義となるのは回復をもたらしたキリストの恩寵を信じる信仰によるとするのがパウロの義認理解である。
ケーゼマンは、義を6:18,22(16,18,22?)から神と、3:21(21,22?)から栄光と同一視しているとする。その指摘に行き過ぎがあるとしても、神の力と賜物とを対立概念としてではなく、義認は賜物であると同様にキリストにおいて体験される神の力と捉えていることは正当であるように思われる。
2.信仰から信仰へ(義人は信仰によって生きる)
セム語法の類例から、救いが信仰のみによることを単に強調している(Cranfield)可能性があり、「神の信仰から人の信仰へ(バルト)」のように二つの信仰と捉えるのは無理。それでも「…から…へ」がなんらかの信仰の進展を暗示している可能性(Dunn)を完全に否定する必要もないだろう。ブルトマンの指摘によれば、パウロの信仰理解は、皮相的にはキリストの出来事を受容するものと、その信仰にのっとった救われた罪人としての自己理解を受容するものと、二つの概念がありるものの、しかしひとがキリストの出来事を受容することとそのひと自身の旧来の自己理解の放棄は、相互補完的に働く。そのため信仰は史実の報告によっては生起せず、告知と決断、受容によって絶えず現在において新しく生起するとする。当該箇所は、そうした信仰の二重性を明示する意図をもって書かれてはいないものの、特に1Co、2Coで強調される現在的に生起する告知と受容という教義学的テーマはローマ訪問の動機という文脈において当該箇所にも妥当する。
F.黙想A
1.恥としない(説教
福音は、普通の意味での「自己実現」や「自己確立」には対立する。パウロは、確固たる自己を確立するよりも、福音のために(パリサイ派からの)変節漢と見られることを選んだ。それは、自分が福音に共にあずかる者になるためである(ICo9:19-23)。したがって、自己確立のためにキリスト者であることを利用するという態度は、本来の信仰とは正反対で、自分自身を神とするばかりでなく、そのために神を利用していることになる。
日本人は、対人関係を第一の価値として恥を重視する。だから日本人一般は、無教会のような知的な親キリスト教的人間主義には寛容であり、一方モルモン、王国会館、統一教会のような異端ばかりか、ファンダメンタルな逐語霊感説などには厳しい。しかし教会を救いの機関と考え、聖礼典を守るという意味で、ファンダメンタルはわれわれと同様のキリスト教であるし、実際にわれわれの教団はモルモンの洗礼も有効と認めている。それに対し、教会と聖礼典を拒絶する無教会は宗教性を拒絶する人間主義であり、われわれの信仰とは無関係であるはずである。ところが信徒レベルでは、無教会派に好意的で、素朴で神学に学問性の乏しい教派とは自己の信仰を同一視したがらない。これはわれわれ日本人キリスト者が福音のために恥を厭わない覚悟が無いことの表われである。
また、「まず第一にユダヤ人」という語を、2世紀の異端以来、欧米人はずっと曲解し、ユダヤ人の救いの優位性を認めないできた。そしてナチスの敗戦でユダヤ人差別が恥ずべき行為であることが一般的となると、今度は急遽ユダヤ教に同情を示したりする。欧米人のこうした態度も、神よりも人の裁き、または自分自身に対する己の裁きを第一とする、不信仰である。
そうは言っても、信仰告白の言葉が「福音を恥としない」というのは、恥とする方が当然だからである。コリント前書からも分かるとおり、当時のキリスト者は倫理的放縦による不道徳な者でもあった。パウロはそうした教会を、臆せず神の教会と認める。
2.神の義(説教
イ) われわれは正義を愛し、それを追求している。愛、赦し、憐れみなどは、正義のもとでなければ善いものにはなり得ないからである。
ロ) しかしその求め方は、自己の安全が守られる範囲でである(5:7)。さらに、誰でも義は自分にあると考えて、他者が自己に対して正義であることを求める。(例:旧約聖書の時代には、イスラエル民族神の歴史介入がイスラエル以外の民族を圧倒することによって義が実現し、救いが得られると信じられていた。)
ハ) そのような人間に、正義が実現することはない。正義のない所には、目的がない。そんな場所での生は、ただ命の消費のみになる。それが死と滅びに向かった生である。
ニ) そのためひとには正義が必要で、それを追求する。その結果がファリサイ主義である。「自分が変わらなければ相手を変えることも出来ない」との標語のもとに、自己が完全に正しくなることを追求すべきであるという強迫の下に立たされつつ義を追求したとしても、そうした(ギリシア的な)正義の追求は、自己目的であるため、自己以外の世界は全て手段にならざるを得ない。その場合、義はどんなに勤勉に追求しても得られないばかりか、追求すること自体が自己に閉じこもることになり、救いから遠ざかる。これが律法の義である。
ホ) 義を追い求めながら、そうすることでかえって義から離れる自家撞着を断ち切るのが、無償で与えられる神の義である。神は、完全ある義であるが故に、自己完結せずにわれわれにかかわる。そのかかわりは、背を向けている罪人に、贖いとしてひとりごを差し出したのである。
ヘ) パウロは、自己変革を要求せず、ただ信ずることを要求する。救いには自己変革が必要なのではなく、神が義を与えてくださっていることを承認することのみが必要だからである。(その際、義とは倫理でなく神との関係を意味する。)パウロのしようとしてることは、指導ではなく交流である。不義なる者に対し、キリストも裁きではなく交流をもって臨んだ。
3.神の力
イ) 恥と誇りとは自己が自己自身を何と規定しているかを表わす(説教
ロ) それにもかかわらず、福音は信じるすべての者への救いであると言われる。救いは信仰の深さによって度合いが変わるというよりも、信仰から信仰へと導かれるものである。キリストに従わず世間体に従ったことを、世間体が守られたことよりもより大きな恥と悔いるこころを与えられている所から、救いは始まっている。
ハ) キリストに従わず世間体に従った場合、偽善者は自分の罪を見ようとせずに他者の罪を責める。しかし真理に対してより敏感で誠実であり偽善を克服した場合も、自己の力に頼るならばニヒリズムに陥らざるを得ない。われわれは王ではないため、十全な力がないが、ニヒリズムとは、力を信じないことだからである。
ニ) しかしキリストの十字架で啓示されているイエスの恥(Mt27:27-31)は、神の力である。赦しは全ての者にもたらされる故、力を持って我欲を通す悪人ばかりでなく、それを見て見ぬふりしかできない弱い者も赦されている。この赦しを知っている時、われわれは、偽善にもニヒリズムにも陥ることなく、本当に恥ずべきことを恥じることが出来る。
ホ) 「私は弱い」という所から始められる強さは、ひとの人格と人格を結びつける愛へとつながって行く。天国とは、雲の上の花園ではなく、われわれの内側にあるこの愛の結合から見えてくる永遠なる神の力である。
W.神の義に対する神の怒り(18, 19)
A.逐語訳(本文批判は語彙、釈義の中で行う)
18 :なぜなら神の怒りが天から啓示されている、人間のすべての不信心と不義について、それは不義にあって真理を抑え付ける。
19a:なんとなれば神の知はそれらの中に明らかである、 19b:なぜなら神は彼らに明らかにした。
B.語彙
orgh qeou(18)神の怒り。パウロ以外では、Jn3:36は御子を信じる者が永遠の命を得、信じない者の上には神の怒りが留まる。Eph2:3; 5:6、Col3:6では悪徳を行なう者を不従順な者と同定して神の怒りが降るとする点、パウロの神学的理解から大幅に道徳主義的理解に移行しているように見える。パウロでは、神の怒りは律法によってもたらされる(4:15)が、キリストによってすでに義とされているわれわれは、その怒りからも救われている(Rm5:9、9:22)。神の怒りは現世的には世の支配者によって代わって行使される(Rm13:4,5)。1Thでは我々は神の怒りからキリストによって救われるように定められている(1:10; 5:9)。Hbでは神の安息に与ることを理想とし、神の怒りを受ける安息に与れなくなる(3:11; 4:3)。Rvでは子羊キリストも怒りの日に怒り(6:16, 17) 、その怒りは杯として表現される(14:10; 16:19; 19:15)。神の怒りとはギリシア的な感情としての怒りではないため、後代の写本のように「神の」を省略する必要はない。
adikia(18)不義、不正、不忠実。義の反対概念であり、罪と互換性のある語。そもそも義が絶対の倫理規範に照らして定まるものではなく関係概念である故(前「V.福音の力の紹介」の項参照)、不義も商業的な損害にさえ用いられる。しかしそれが神との関係で言われるため、その意味で「罪」と同義となる。不義なる者は真理を抑圧しており、そのために裁きの日に神の怒り(報い)を受けるとする発想は、当該箇所だけでなく2Pt2:2,9,13,15、2Th2:10,12にも見られる。
asebeia(18)不敬虔。真理に反する点でasebeiaはadikiaと関連するのはユダヤ教以来である。しかしユダヤ教理解はasebeiaがadikiaの結果として生じるのに対し、パウロは人間の本性として描く(M.Limbeck)。
fanero"、fanerow(19)明らかな、明らかにする。新約聖書全般に広く出るが、パウロ書簡(8/18、14/50)およびヨハネ文書(1/18、18/50)が愛用、ヨハネ文書ではイエスの行動と神の啓示および人の信仰告白がこの語で結びつけられる。パウロではRmと1,2Coに頻出、
C.釈義
1.文脈と構造
apokaluptetai(啓示されている)、gar(なぜなら)の反復から17節との対をもって神から啓示される事柄を表わしながら、ローマ書全体の本論を開始していることが分かる。garは論理的理由付けによる接続というよりも対構造の強調である。11章までのローマ書における神学的論述の最初は、信仰による義(3:21〜)を導き出すために人間の不義が述べられる(〜3:20)。
特に1:18-2:16はユダヤ人にもギリシア人にも共通の神認識と神からの離反が語られる。当該箇所はその導入である。
2.神の怒り
「神の怒り」はひとを滅ぼすに足る決定的な力を有する点、啓示の担い手であるイスラエルの離反に対する怒りである点に旧約からの連続性が認められる(2:17-25)。その反面、怒りの内容は具体的には「無価値な思いに渡され(21, 28)」ることに変化させられている。この点で2:5、5:9、1Th1:10と異なり当該箇所では3:5、1Th2:16と共に終末の裁きの現在化がみられる。旧約では怒りの期間がいつまでであるかがイスラエルの関心であったのに対して、ここでの怒りは決定的である。それは今やキリストによってその怒りが克服されたにもかかわらず神への離反を続ける以上、離反者は今のままで怒りのもとに滅ぼされているからである。神の怒りを心情的に理解すべきでないのは当然であるが、ケーゼマンはその前提に立ちながら、かといって罪と報復の間の因果関係をただ内在的とするDoddの理解も浅薄であるとして裁きの終末性を主張する。
3.不義と不信心
asebeiaの語はadikiaと同義で特別な注意なしに用いられているように見える。パウロにとっては義は自己追求でなく神の賜物である故に(前「V.福音の力の紹介」の項参照)、不義は不品行でなく不信心だからであろう。ケーゼマンの指摘する通り不道徳は罪ではなく罰である。
4.真理を抑圧する不義
「真理」とは神の真理(25)であるため、それに倣って後代に「神の」を付加する写本がある。我々は不品行ではあっても真理を抑圧する意図はない。しかし創造主としての神と被造物としての人の正常な関係を拒否する姿勢は真理の抑圧である。その際真理とは人間にとってはほとんど義と同じく関係概念となる。
5.自然的啓示
神が知らされていることが、人間が神的真理を抑圧していることの根拠として19で示される。人の罪は無知故でなく不信心の故である。
聖書協会訳(口語訳)、新共同訳とも「神について知りうる事柄」として「神」全体を知ることと区別するように注意している。しかし不可知、不可視性は旧約以来の大原則であるが、ここではそれに敢えて反する言い方がされている可能性がある(ケーゼマン参照)。不義を上の意味で捉える時にのみ真理の抑圧は須く偶像礼拝となる(この点でバルトの当該箇所に対する黙想は正当)。神は被造物に予見できるだけでなく、神が意図をもってご自身を明らかにしたことが19bで示される。
当該箇所がAc3:17、17:30と同様無知の時代とキリスト後を分けており、人は神の現実をキリストによって体験したとする主張が背後にある(ケーゼマン)とするのは無理であろう。19a「それら」はplで「福音(の中に)」とは出来ないため、20の被造物であり、当該箇所では主要テーマではないものの自然啓示についてが述べられていると言わざるを得ない。
D.黙想 神の怒り
イ) パウロは神の怒りを動機付けに折伏しようとはしない。人間の放縦な生活に(例:同性愛26,27)、神の怒りと刑罰を見、その怒りから救われた者として、宣教を自己の緊急の課題と捉えている(14,15)。
ロ) しかし、放縦(自由)は一般にはむしろ憧れである。またパウロ自身は、救われる前は放縦とは逆の道徳的生活を守っていた。律法の元にあることは怒りの元にあることであり(Rm4:15)、パウロ自身は律法から自由になった(Rm7:6)と述べる。すなわち律法の遵守義務は放縦な生活と罪の本質においては変わらないことを意味する。
ハ) 律法遵守を義務化しているのは律法を欲していないからであり、結果として律法の不能を生む。遵守義務を羅列した文字としての律法ではない霊的な真の律法とは、神との協働であろう。神は知り得るが、ただ祈りに依ってしか知り得ない。律法の遵守義務からの解放は放縦ではなく(1Co6:12, 10:23)律法の完成である(Rm13:8-10; cf.Mt5:17)。
ニ) パウロは、道徳に縛られている者にも/欲望に縛られている者にも、そうした罪からの解放を告げるために伝道者となり、ローマ訪問を切望する。
X.自然的啓示とそれに反する偶像崇拝およびその結果(20-32)
A.構成
1.段落構成
前19節より引き継がれた自然的啓示の主題が(19,20)、人間に拒絶されたものとして示され(21,22)、その結果は偶像礼拝であるとされる(23-25)。その際25で誉むべきものとしての神を、頌栄として述べるために、一見「アーメン」で段落が区切られるように感じられる。しかし次項で述べるとおり修辞的な発展構造が顕著に認められるため、頌栄はパウロの自然な感情の発露として挿入されたものと見なすこともできる。
偶像礼拝は、まず具体例として同性愛に表われるものとして、同性愛の説明が他に比して詳細である(26,27)ことは、現代のわれわれにとっては多少奇異に感じれられる。その後、他の背信の結果としてかなり大きな悪徳表があり(28-31)、最後にそれらの悪徳を担う者が断罪される(32)。
以下修辞的な発展構造を示した後は、当段落を前後に分けて釈義する。
2.修辞的発展構造(20-31)
20から27においてaidio"/dunami"/qeioth"/afqarto"←noew/ginwskw/sofo"←→skotizomai/ssuneto"→mwrainw→、fqarto"をキーワードに、悟りのなさから無意味を経て偶像崇拝へ論述が発展し、allassw/doxa←→metallassw/atimazwを対句に堕罪の恐ろしさが強調される。さらにatimia/aschmosunhをキーワードに偶像崇拝は性的放縦へと論述が展開される。その全体は、人間の側のallassw(23)/metallassw(25, 26)と神の側のparadidwmi(24)/afihmi(27)で関連付けられる。この論理展開の仕方は28-31においてepignwsi"←(paradidwmi)→adokimo"と同じ構造をもって29-31の悪徳表に至る。
B.段落前半(19-25:自然的啓示の拒絶と偶像礼拝)
1.逐語訳
<自然的啓示の拒絶>
19a:なんとなれば神の知はそれらの中に明らかである、 19b:なぜなら神は彼らに明らかにした。
20a:なぜなら彼の不可視性は、宇宙の創造から被造物において知られて、はっきり分からされる。 20b:それは神の永遠、力、また神性、 20c:これをもって弁解できない。
21a:なんとなれば神を知った者たちが、神に対するように崇めることをせず、また感謝することもしない。 21b:むしろその考えにおいて無益にされ、その心の馬鹿さ加減が闇とされた。
22 :知者であると主張しながら無益にされた。
<偶像崇拝:23-25>
23 :そして神の朽ちぬ栄光をそれ自体朽ちる人や鳥や四つ足や這う物に似せて変えた。
24 :それゆえ神は彼らを渡した、彼らの心の熱望にあって彼らの身体の辱めの穢れへと。
25a:そんな彼らは神の真理を偽りに変えた、そして創造者でなく被造物に礼拝を捧げて崇めた、 25b:創造者が永遠に賛美されるものである、 25c:アーメン
2.本文
20b:レギウス写本に「永遠」が欠落する。事故的脱落でなければ被造物と永遠の接近を嫌ったものか。
23 :「変えた」がKのみ能動でなく中動態。25、26のmetallasswはいずれも能動なのでKの意図が不明。
24 :D、G、Ψが「それゆえにまた」として人間の背反と神の裁きの対応を強調する。G、Ψ、33が「彼らの」を「彼ら自身の」。
3.語彙
noew(20)理解する、よく考える、想像する。一般的な「知る」ではあるが(新約全般に14回)、パウロは当該箇所のみで用いる。
aidio"(20)永遠。新約中では通常はaiwn、aiwnio"が用いられるが、aiwnio"は本来は時間を延長させた結果としての永遠であり、時間と永遠の絶対的な差異を言うバルト程には厳密ではない。ここではヘレニズム世界で神の属性を表わすaidio"が特に用いられる(他はJd6のみ)が、レギウス写本は省略する。
mataioomai(20)無益にする、mwrainw(21)馬鹿になる。塩の塩味がなくなる馬鹿=無益は後者、前者は当該箇所のみ。
allassw(23)、metallassw(25, 26)変える。「変えた(23:act.)」をKはmid.にする。パウロが愛用する(4/6、当該箇所のみ)が、肯定的(1Co15:51,52朽ちるものは朽ちないものに、Hb1:12神は変わることなく)にも否定的にも(当該箇所)価値中立にも(Ga4:20「語調を変える」)用いられる。前者が報告的なのに対し、後者はmeta-から旧来のものに対して旧習を継続せずに新たに変更するイメージが感じられる。
skotizomai(21)暗くする。福音書、黙示録2回づつは光学的比喩、当該箇所とRm11:10は愚かと同義。
asuneto"(21、31)悟りのない、愚かな。福音書では人を汚すものについてイエスが悟りのなさをたしなめる箇所にある(Mk7:18; Mt15:16)。他はRmに3回(他は10:19)、愚かは神への不信仰であり道徳的な悪であり、そのためイスラエルの民は異邦人をそう言い表わす(10:19)が、それは実はイスラエルの民自身の問題であった。
4.釈義
a.偶像礼拝(20-25)
偶像崇拝を、パウロは自己の被造性からの逃避またはその拒否と関連づける。その点で偶像礼拝を自己神格化の結果とするバルトは不当とは言えない。しかしパウロは、当該箇所では自己神格化という原因よりも偶像礼拝によって空虚や虚無、あるいは悪徳という結果に至っていることを強調する。
b.虚無、無価値(21-25, 28)
神に対する知を拒絶する不信仰は、偶像礼拝や同性愛を禁止する根拠を見失わせるため、人間の行動はそのような方向に向かう。キリスト教信仰を一時棚上げして神を究極関心としても(Tillich)、究極関心から離れることは心が鈍く、愚かで虚しいことになるのは正統信仰に同じ。
5.黙想
a.偶像崇拝(19〜25)
イ) 偶像崇拝者の特徴のひとつに知者と自認しながら愚かであることが挙げられている(22)。宗教関係の仕来りに詳しいのは、その宗教が本質を見失っているものであるのならば、愚かであることはよく理解できる。しかし宗教関係に限らず知識を統合する意味を失った知識の集積は愚かである。
ロ) 偶像礼拝が神への裏切りであるのは、ただ規則遵守に違反するためではない。異教の習慣を拒絶することは、自己の信仰をまもる上での便法としては有益であろう。しかし諸宗教のさまざまな儀礼は単純に神ならぬものを拝んでいる訳ではないし、異教社会に住むキリスト者が異教の諸儀式を避けることをもってそのまま神を正しく崇めることにすることはできない。それでは、キリスト教の諸規則をそのまま偶像として崇拝しているに過ぎない。
ハ) パウロは、神は人間に知られているとする(20,21)。知識が虚しいのは、それを統合する意味主体が存在しない時である。その際知識を統合する主体とは、そのまま人間が生きる意味につながる人格の最奥である。そうした人格に触れる出来事の感動を知る者が、その感動をもたらすものを自己の内部でなく外的、究極的な力として受けとる時、神を神として正しく崇めることになる。
ニ) 偶像崇拝が神への裏切りであるのは、神の本質が静的な理念ではなく、神は命と言われる通り動的な出来事であるにもかかわらず、生ける神を静的な制度の中に押し込めるからである。神の怒り(18)も、この視点から考えれば、天罰のようなものではなく、命からの逃避として理解できる。そして躍動する生命からの逃避は、現実には天罰のようにひとの生を損なう結果を招く。
ホ) われわれが救われているのは、そのような逃避と神罰からである。すなわちキリストの我々に対する自己投与に対してわれわれが人格として反応することが赦されており、そこからわれわれは神の愛を受けとりそれを隣り人に自己投与する命を得る。そうした命を生きる時、不自然な病気、怪我や人間社会での混乱はなくなるし、神の与えた病気や混乱は、災いではなく自己確立につながるものとなる。
C.段落後半(26-32:偶像礼拝の結果としての悪徳)
1.逐語訳
<同性愛:26, 27>
26a:このことの故に、神は彼らを全ての不名誉へと引き渡した、 26b:なぜなら彼らの女性は自然な性的機能を自然に対抗するものに変更した。
27a:同じように、男性もまた自身の互いの情欲のうちに女性に対する自然な性的機能を止めて、 27b:男性は男性の中にあっての恥と報いを準備してる、それは彼ら自身が受けている、彼らの迷いの必然である。
<無価値なものとしての悪徳表:28-31>
28a:そして知識に於いて神を喜ばなかった通りに、 28b:神は無価値な思いに彼らを引き渡した、 28c:ふさわしからざる行なことをやるような。
29a:全てをやってしまって、不義、悪意、貪り、憎悪……の、 29b:妬みや殺しや対立や欺きや無意味に満ちて、 29c:陰口を言い。
30a:誹り、涜神し、侮蔑し、うぬぼれ、自慢し、 30b:不正を画策し、 30c:両親に反し、
31 :馬鹿で、不誠実で、人でなしで無慈悲である。
<それらに対する評価:32>
32a:彼らは神の規則を知った者でありながら……すなわち、そのようなことが死に値することに相当するのを。 32b:ただ自身でするのでなく、むしろ相応のことどもを賛同する。
2.本文(悪徳表の個々の内容は別掲)
26b:D*が「性的機能(crhsin)」を「被造物(ktisin)」としながら文末に「自然に対抗する性的機能」として意味を補う。
27a:A、D、G、P、Ψ、33がteをdeにかえる。Cにはない。 27b:B、Kは「彼ら自身」を「彼ら」。 Gはapolambanwに代わってantilambanw、同義だが他箇所では中受動態のみで助ける、受益するの意味でのみ用いられている。
28b:Sin、Aは「神は」を省略。
29a:「悪意」を削除するもの(K、D、G、P)がある他、語順に乱れがある。D、G、P、Ψが「淫行」を加えるが、D、G、Pは「悪意」の書き替えであろう。 29b:Aは「欺き」を省略。
30a:D(欠落の追加部)がkatalalo"に代わってkakolalo"。
31 :Sin2、D1、Ψ、33がa;spondo"(新約他は2Tm3:2ffの悪徳表のみ)を加える。
32a:Bは「知りながら(part.pres.、他はpart.aor.)」。 32b:Bはpoiew、suneudokewをact.pres.にするため
3.語彙(悪徳表の個々の内容は別掲)
fusis(26)自然的本性。パウロに頻出。パウロは(性欲に限らず服装も含めた)性的逸脱を自然からの逸脱としている(当該箇所、1Co11:14、)他、人間は本性的に神の律法を守るべきものとされる(Rm2:14, 27)。またイスラエルの堕罪も含んだ選民思想が自然的本性から説明される(Rm11)。
fusiko"(26,27)自然に即した、自然物。当該箇所の他は2Pt2:12のみ。当該箇所ではと同義で肯定的に、2Ptでは否定的に用いられる。
crhsi"(26,27)関係。当該箇所のみだが、他文献では性関係。ただし1Sm1:28LXXではハンナがサムエルを神との「関係者」とする。
dokimazw(28)調べる、価値を認める。新約22回中16回がパウロ書簡。新約他文書では価値判断がやや後退して調べる、確かめるに過ぎないのに対し、パウロ書簡では善悪の判断の要素が前面に出、しかも宗教的な意味合いでのみ用いられる。主語は神と人双方をとる他、当該箇所のように「ひとが神を試す」ものさえある。ただし判定の後の断罪のニュアンスはほとんどないため、聖餐制定語(1Co11:28)でも「吟味する」が適当であろう。当該箇所は「善きものと見なす」意味で「喜ぶ」と訳した。
dokimo"、adokimo"28)悪い、無価値な。上の類義語のこれらの語もパウロ書簡に頻出する(それぞれ5/7、5/8)。
4.釈義@(悪徳表の個々の内容を除く)
a.同性愛(26,27)
同性愛はLv18:22、20:13で根拠なしに忌むべきこと(bdelugma)とされ、新約でも1Co6:9では偶像礼拝、姦通と同列に扱われる。しかし旧約時代は死罪(Lv20:13)ではあるものの、姦通や近親相姦に比べればそれ程大きく取り上げられていないばかりか、Dt23:18,19では神殿男娼(直訳は「犬」)の存在を黙認している。またbdelugmaの語も新約では積極的には用いられない。
キリスト教会保守派は同性愛をヘレニズム環境世界における倫理的堕落の代表例として嫌悪していたとするヴィルケンスの指摘は妥当であろう。しかしパウロ自身がこのキリスト教保守派と同じく同性愛を自明のこととして機械的に偶像礼拝と同一視しているとするのは、一つの可能性に過ぎないように思われる。救いが神にあることを知るキリスト者は人から情欲の充足を得ることで救われようとする必要がないことをその根拠にするが、当該箇所で特に同性愛をとりあげて偶像礼拝と結びつける理由が説明できない。
ここでは同性愛が不自然であることが問題とされている。不自然な結果に陥っていることを機械的に罪と断罪している訳ではなく、パウロは偶像礼拝が自然な人間性を歪曲させるとし、その顕著な例として同性愛を挙げているのであろう。そうした観点に立てば、現今の性同一性障害を一概に罪として排除することは、むしろパウロの望まない律法主義である可能性もある。
b.悪徳表(29-32a)
当該箇所で列挙される悪徳は、親に対する不敬等が旧約聖書、十戒の悪徳を継承しているように見える反面、性的な不道徳が直前に語られているにもかかわらず姦淫、好色、淫乱がない(カルヴァンはΨ、多数派本文に従って性的不品行を入れる)。26,27の悪徳は特殊な事例であるため、26,27で性的放縦を十分に語ったから必要がなかったとするのは当たらないであろう。
たとえばGa5:19ffと大きく異なる。Ga5では「肉の業」としての悪徳が列挙されているのに対し、当該箇所では「肉の業」の列挙を目的とせず、神を認めない不信仰から出る「無価値な思い」の具体例を列挙している。26,27の同性愛批判も、「聖なる神の宮である身体を汚す」というものではなく「無価値」であるという文脈にあるものとして理解されるべきであろう。
語彙が最も近似するのは2Tm3:2-4。福音書(Mk7:21,22並行)やパウロ自身による他の悪徳表(1Co6、Ga5)が淫行など不道徳全般を論じているのに対し、隣人との比較によって現われ出る精神的な悪徳を論じているのは2Tm3の他Eph4:31、Col3:5,8、1Tm6:4、1Pt2:1。真正パウロ書簡では教会内での党派争いが問題となっている2Co12:20が、個々の内容では似る。
偶像礼拝を悪徳の一つとして描いているものは多い(1Co5:10f、2Co6:9、1Pt4:3、Ap9:20f, 21:8, 22:15)が、当該箇所は偶像礼拝を悪徳の原因としており、その点では1Tm6が最も近似する。2Tmでは終わりの日の世俗の状態と、それによるキリスト教会の困難を予言する文脈。Eph4、1Pt2は新生したキリスト者の生き方に反するものとして。Col3はキリスト者の新生ではこれらに似るが、偶像礼拝者が陥る悪徳である点で当該箇所と一致する。
列挙される悪徳は、対人関係における意図にかかわるものである。内容は、@一般的な悪、悪意、邪念(29a,b)/Aむさぼり、ねたみ、陰口、そしり(29-30c)/C高慢と大言壮語(30)/D愛の欠如(31)/と、その中心にB神を憎むこと/がある。
A←→Cの対応は、神を神としない偶像礼拝から発する悪意が劣等感としてあらわれる場合はAむさぼり、ねたみになり、優越感としてあらわれる場合はC高慢と大言壮語になるとすることは可能か。29b「邪念にあふれ」までが単数形、「陰口を言い」以下は複数形であるのが意図的なものだとすれば、29a,bが対人関係における悪い意図を一般化したものであり、それ以降30までが涜神を中心にが劣等感と優越感として配置されているとすることができる。
これらの悪徳を「死に値する」と言われるには余りにも内面的である。他者に対する正しい関心が失われた時(31)、ひとは既に死に相当しているととれば、この極論が理解し得る。
c.悪徳の容認(32)
本節で悪徳を是認しているとするのに対し、次節以降は悪を行うものを裁くとされている点、次節と皮相的には矛盾する。そのため主要な注解は当節までを異教批判、次節以降を自己批判として解決させる。しかし執筆の直接の動機はそうだとしても、神を神としない背信と偶像礼拝の結果としては、自己の判断を第一に立てるために賛同と裁きという相反する態度も矛盾ではない。
5.釈義A(悪徳表の個々の内容)
a.当該箇所のみに用いられる悪徳用語
kakohqeia(29)悪意。「ギ……釈義事典」では欺きに続いているので「狡猾」とすることを提案している。
yiquristh"(29)ささやく者。陰口、讒言、密告に用いられる。
katalalo"(30)誹る。類語は1Pt2の悪徳表にある他、Jms4:11、1Pt2:12, 3:16にあり、パウロ自信も2Co12:20で党派心との関連で述べる。
qeostugh"(30)神を憎む。古来「神に憎まれた」という受動的意味であり、当該箇所も語彙としては受動的な意味に訳すことも可能であるが文脈に沿わない。後の使徒教父時代には明確に「神を憎む」の意でも用いられる。
efeureth"(kakw/n)(30)(悪の)考案者。efeureth"自体は価値中立で、自らで何事かを考え出す者。
asunqetou"(31)不誠実な。契約や自らの約束を守らないさま。
anelehmwn(31)無慈悲な。慈悲がない、もしくは慈悲をかけることを拒むこと。
b.パウロ書簡のみ(偽書も含む)に用いられる悪徳用語
eri"(29)争い。1CoやPhpでは教会を揺るがす教会内の党派争いであり、妬み(zhlo")をその原因に見る。Ga5の悪徳表にも出る。
ubristh"(30)無礼、傲慢。侮辱、虐待を加えることを表わすubrizw、ubri"の類語であることから、傲慢、不遜でも他者に対する態度を示すものであろう。1Tm1:13ではパウロの口をして自己の回心前の悪徳として語らせる。
alazwn(30)ほら吹き。高慢さから来る大言壮語するもの。他は2Tm3:2fの悪徳表。
astorgo"(31)無情な。家族や近しいものに対して情愛のないさま。他は2Tm3:2fの悪徳表。
c.一般的な悪徳
adikia(29)不義、不正、悪事、偽り。Hb、1Jnから罪とほぼ同義に用いられる。旧約では神に対する不義であり、その不義に相応の報いも想定されていることは、当該箇所の文脈にも一致する。しかしパウロは不敬虔、不信心(asebeia、1:18)という、ある意味では消極的な悪徳と同一視する。旧約の神に対する背きが徹底され、不信仰はすなわち被造性の拒否であり、そこからあらゆる虚栄的無定見が生み出される。その意味で、ここでも悪徳の冒頭に置かれている。
ponhria(29)悪。意図(悪意)と行為、結果としての属性(下品、役立たず)まで表わす。共観福音書で並行箇所でなくそれぞれにイエスの口によって非難されるが、特にMt22:18、Lk11:39では悪徳の諸属性のうちのひとつとしてでなくイエスに逆らう者の反対の根拠として単独で用いられる。
pleonexia(29)貪欲。pleonektew、pleonekth"を含め、福音書、真/偽パウロ書簡、公同書簡に頻出する(19回)。注意すべき、または不信仰な者が陥っている悪徳として述べられる他は、伝道者は貪欲から生活保護を要求したのでないとする自己弁明がある。
kakia(29)悪、労苦。一般的、包括的な「悪」。
fqono"(29)嫉妬。Mk15:10並行では、敵対者がイエスをローマ→十字架へ引き渡したのは嫉妬によるものとされ、悪徳表にも頻出する。その一方で、Jms4:5では神がわれわれに内在する霊を嫉妬するほどに思いやる。
fono"(29)殺人。悪徳表に用いられるのは実行犯のみならず殺意をも表わすためか。
uperhfano"(30)高慢な。悪徳表の他はマリアの賛歌で主に追い散らされた者の属性として。
(goneusin )apeiqei"(30)(両親に)不従順な。不従順は、専ら神の意志に対するものとして本来宗教的な意味を持ち、「不従順の子」なる定形表現もある。両親に対して不従順であることは十戒違反としての宗教的な罪の要素を含む。ただし当該箇所は不信仰の結果としての悪徳であるため、逆に世俗的、一般的な両親への不従順を表わしている可能性がある。
asuneto"(31)無理解な。21節の語彙参照。
6.黙想
a.同性愛
イ) 当該箇所の現代にも妥当する福音は、同性愛を規則違反とすることとは無縁である。パウロの時代と異なり、現今は同性愛者の一部を性同一性障害とみなす見方が生まれた。同性に対する性愛が機能的な障害(または少数者という意味での異常)の結果であるならば、同性愛を倫理に違反するものとはしにくくなる。ここでは同性愛者が自動的に汚れた罪人とされているよりはむしろ偶像礼拝の結果として同性愛に陥ることが指摘されていると見るべきである。
ロ) 二人の同性愛者について; A、B共に劣等感から異性に対する性愛をいわゆる「普通」には表現できなかった。Aはその異常性愛を権利の拡大に利用したが、Bは性欲よりもむしろ異常性愛の告白を、他者との関係確立に利用した。その結果、Bは解放と一致に至ったのに対し、Aは際限のない権利の拡大要求に埋没して行った。この両者の違いは、神の前での自己の罪に関心があるかないかに依っている。
ハ) Bでさえも、自己の異常性愛を必ずしも罪と考えていた訳ではないが、少なくとも社会の中での自己の非と認めていた。権利を失うことを覚悟しつつも自然に生きるためには自己自身を告白せざるを得なかったに過ぎない。しかし自己の告白は、かえって自己を獲得し直した。それに対してAは、自己の非を認める力がなかったために権利要求に走り、自己を喪失して行った。
ニ) 神を神として崇めなければ、自己を罪とする規範が失われ、その結果、罪を告白することに不能となる。すると他者との人格的な関係が構築できなくなることは、同じ同性愛者であるAとBの相異が顕著に示している。これは同性愛者でなくとも思い当たることである。自己の非を認めない時、われわれは自己を正義の担い手または被害者の立場に置くが、その結果、他者との関わりは表面的なものになる。
ホ) キリストの贖罪は、自己の罪を告白出来るようにする。その結果、われわれは隣り人と人格において一体となって行くことが出来る。われわれは、それとは別に社会秩序の破壊に対する断罪と刑罰を期待する。しかしAは罪によって既に裁かれ、孤独であり、死と滅びに向かっている。われわれもAのために祈らずAを断罪するのならば、少なくともAに対しては人格的な邂逅が出来ず、少なくともAとの関係においては孤独と滅びに支配されている。
b.無価値な思い
イ) 今回のアメリカによるイラク攻撃は、ここに挙げられる全ての具体例に当てはまる行ないがなされている。この対立と抗争は無神論の結果でないが、それぞれの指導者が自分自身に適用しているような神の意志の体現ではない。神ならぬものを神とした偶像礼拝の結果である。
ロ) 神は究極価値であり、われわれはそれを知っている(19f)。聖霊によって、神はわれわれに究極関心として顕われる。それは安逸驕奢な生活でも他者を支配することでもない。神を拒絶し、究極関心から離れた時、ひとは自らの意味を喪失する。(この点で、不信仰がすなわち神の怒りや裁きを招来し、裁きの結果がまた偶像礼拝に還るとする自己循環が良く理解できる。)そこで、対立する両国の指導者も、神無しには闘うことができず、ともに神を必要としている。
ハ) しかしわれわれには、彼らが己が神の名をみだりに唱え(Ex20:7; Dt5:11)、金の子牛を鋳造する偶像礼拝者(1Kgs12:25-30)であることが良く分かる。彼らは神を必要としながら、それを見誤っている。究極価値は、ひとの中から出るものではない(Mk7:15)。したがって、それぞれの国が引き渡された「無価値な思い」も、独善的な平和主義から戦争を無価値と決めつけることとは異なる。平和主義も、人間の思想である以上、神を神としないときに不和を起こし、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐くようになる。神を神としない限り、われわれ全てがこの悪の支配され逃れられない。
ニ) ここの悪徳は、他者との比較において自己を確立しようとする場合に起きるものである。われわれは隣人と共に生きるものである限り、われわれの究極の関心は、隣り人と生きることに直接にかかわることである。われわれには等しく究極価値にかかわる正義感が与えられている。しかし究極価値はひとの内にはあり得ず、外から来て人間を支配するものである。この支配を拒むのが、すなわち「神を憎む」ことである。
ホ) キリスト信仰は、自己否定による自己肯定であり、偶像礼拝に陥らず神を神とするとは、キリストの支配に服することである。具体的には隣人愛であるが、それも愛したいから愛すのではなく、愛せよとの命令に従って愛することである。それは自己の自発性(自己の内に究極価値を求めること)を放棄する自己否定の側面を除去することはできない。しかし神の拒否する(自己の内に究極価値を求める)ならばはヒトは自らの意味を喪失するが、神の命令と自発的な意志が合致したとき、神との合一を得る。キリストは、われわれの功績によってではなく、十字架によって、この神の支配を実現した。われわれは、注がれる聖霊に従いさえすれば、(愛を命ずる)神を見出し、悔い改めて真の神に還ることができる。
c.死に値する罪
イ) 死に値する(1:32)罪とは、ここ(29-31)に列挙されているようなものではなくずっと凶悪なものを、われわれが想定している点で、「神の定めを知っていながら(32)」とすることは、当たらないようにも思われる。そのため、自己よりも他者に厳しいわれわれでも、これらの悪については確かに「自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認し」ている。御言葉はそんなわれわれを凶悪犯の同罪者として厳しく断罪する。死に支配されている現実を認めないでは、われわれは命へと至る出発をさえ、始めることができないからであろう。罪の自覚こそ、ひとを罪から救い、幸いへと導くキリストの福音の始めである。
ロ) ここに挙げられる悪徳は、無価値な思いに渡された者が「するようになる」ことなのであって、これらを実行した罰が死罪だというものではない。これらの具体例を実行するかしないかにかかわらず、われわれはキリストの贖罪によって「無価値な思い」から救い出されている。換言すれば、これらの悪徳を実行したとしても赦されているし、「無価値な思い」に還るのならば、実行がなくともわれわれは自らを滅ぼすことになる。偽善でも自己洗脳でもない正しい罪の自覚が必要であり、列挙された悪徳がなぜ死に値するものであるかが信仰の目でよく認識されなければならない。
ハ) 世の常識では陰口は赦されるが、殺人は赦されない。少人数の教会で陰口を言う者を受け入れるのは当然であるのに反し、殺人者を受け入れることは困難である。他者に徒に厳しいわれわれが他者の悪徳を是認するのは、自分が糾弾されることを恐れからに、また他者を裁くのは己のプライドに尽きる。しかし謝罪、断罪する者は自己ではなく神であるべきであり、それを受容しないのは偶像礼拝である。
ニ) そのような信仰は、「悔い改め」が有名無実化している。しかし常識では赦せない同じ殺人でも、「無価値な思い」に渡されてしまった殺人者と、殺したことに自我が震えている殺人者とがあるだろう。命が自我の動的な形成であるとするならば、自我が震えている殺人者は、そのことでまさに神に生かされている。その一方で悔い改めを拒んだ殺人者は、悔い改めを拒んで「陰口を言う」者と全く同じく、死んでいる。
ホ) キリストは、われわれを殺人者として糾弾しながら、われわれのこの自我を揺すり動かし、それ故にわれわれを命に導いているのである。その反対の生き方が、常識的な悪を為さず、自己を義として平然としているファリサイ人、偽善者、クリスチャンである。われわれには、人を裁く権威も赦す権威もない。ただ神の前で震えおののく他者の自我に触れ、共鳴して、自己の命を自覚することが出来るのみである。そうした神の前での自我の震えを共有することれが隣り人を赦し、受け入れることである。