2004年10月10日
日本キリスト教団中村栄光教会
憎んで死ぬか/愛して死ぬか


12世紀オーストリアの写本より



聖書研究
ローマ6章    中村栄光教会
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新約聖書【ローマの信徒への手紙 第6章7〜11節】






憎んで死ぬか/愛して死ぬか

北川一明

T.
 今日のローマの信徒への手紙の最初ですが。「死んだ者は、罪から解放されています(6:7)」って言われます。このことは、信じていないヒトも、納得してくれると思います。むしろ……私ども、天国を信じている信仰者よりも。世の中の無神論者の方が、もっとよく分かるかも知れません。
 宗教を信じているひとは。下手をすると、「生前悪いことばっかりやったから、地獄に堕ちるかもしれない」なんて考えることが、あります。つまり、死んだ後も罪から解放されないで、「罪の報いを受けてしまう」と思うのです。
 それが、「天国なんか信じない。死んだら終わりだ」っていうヒトにとっては。「死んだ者は、罪から解放されています」なんていうのは、むしろ当然です。
 死は、ひとを罪から解放します。書いてある通り、神を信じる者も、死んだら罪から解放されてしまいます。死んだらどうなるか。何が違うかって言ったら。信仰とは、罪から解放された上に。キリストに結ばれて、神に対して生きることが出来るようにするのだろうと思います。

 私どもは; 「今まで信じてたんだから、死んだら天国に行けるはずだ」と思ったり。「こんな悪いことをしちゃァ、地獄に堕ちたらどうしよう」と、思うかもしれません。それは、随分中途半端な……。本当の信仰の平安にはちょっと届かない信じ方です。「今まで信じてたんだから、死んだら天国に行けるんだろう」だったら。本当に死ぬ時には、怖いはずです。
 神を信じないひとたちは、「死んだら、何もかも、おしまいだ」と、言います。私ども、信仰の弱いクリスチャンは、「天国に行けるのかなぁ」と思います。どちらも一緒です。どちらも、神に対して生きているとは言いがたい状態です。
 神さまを、本当に信頼して、神に対して生きていたら。「本当に天国に行けるかなァ」ではなくって。今から、既に天国が始まっています。
 それが、今日の聖書のいちばん最後ですが。「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。私は「キリスト・イエスに結ばれて。神に対して生きているんだ」と……。そう感じているのが、「信仰」です。
 「私は今、神に対して生きている」って確信できるような生き方が出来ている時には。その人は、イエス・キリストに結ばれています。また逆に、自分は今、「キリスト・イエスに結ばれている」と。実際に、そういう生き方が出来ている時には。私ども、これが「神に対して生きているっていうことだ」って確信できます。
 そういう時に、すっかり罪から解放されている。……まだ死んじゃぁいないのに、です。すっかり罪から解放されて。神に対して……ですから、永遠にです。神に対して、永遠の中で、本当に「生きている」ことが出来るようになっています。
 この聖書を書いたひと(パウロ)は、そういう「確信」を……。ここで・こうやって、「神秘」として語っています。

 「死んだ者は、罪から解放されている(7)」っていうのは、理屈で分かります。けれども、われわれが死んだら、「キリストと共に生きることになる(8)」のかどうか。それは、理屈では分かりません。
 ルカ福音書によれば、キリストと共に死んだ犯罪人が、二人ありました(前週説教『共同磔刑』)。そのうち一人は、そのまま一人で勝手に死んじゃいました。それで、全てが終わりになりました。この世の無神論者たちが言うように。「死んだら何もかもおしまいだ」という通りになりました。
 けれども、もう一人は。主キリストさまと「共に死ぬんだ」と信じて、「御国においでになるときには、わたしを思い出してください(ルカ23:42)」と願いました。それで、天国に引き上げられました。キリストと共に死んだ一人は、キリストと共に生きることになりました……。
 どうして自分が「キリストさまに結ばれている」と、言えるのか。どうして私は「キリストと共に生きる」と言えるのか。「神に対して生きる」って、どう生きることか……。それは、ただ死ぬんじゃぁ駄目で。キリストと共に死ぬことが必要なんです。
 「でも聖書を書いたひとは、死んでないじゃぁないか。まだ生きてるから聖書を書けたんじゃぁないか」って、その通りです。ですから、キリストと共に死に、神に対して生きる生き方は。それは論証することはできません。それで、この聖書を書いたひとは。論証するんじゃぁ、ない。キリスト・イエスに結ばれて、神に対して私は生きるようになった……と。その神秘を、ここで証しします。

U.
 この聖書の神秘を思い巡らしている時に、怖い夢を見ました。キリストと共に死に、キリストと共に生きることをしていなかったために、「罪を主人にしていた」と。それが実感される、恐ろしい夢でした;
 ひとりのヒトが……男か女かも分かりません、ひとりのヒトが。誰かを、物凄く恨んで、憎んでいるんです。その人が、今、死のうとしていました。
 死刑になるのか、病気なのか。夢だから、細かな状況は、さっぱり辻褄が合わないんですが。だけど、その人の顔の印象は、詳細に覚えています。
 目をギラギラと見開いて。口は、憎々し気に、薄笑いを浮かべています。憎んでいる相手を笑っているのか。それとも自分自身を笑っているのか、分かりませんけど、不愉快そうに笑っていました。
 「悪魔のような」というよりも、悪魔よりも怖い顔かもしれません。そんな表情でした。
 その人が、私に寄りかかるようにして、聞いてきました。「死んだら、罪から解放されるんだろう?」と聞くのです。私が「そうだ」と言いますと、そのヒトは;
 「私は今、ヒトを憎んでいる。周りの人たちは、私が親しくしていた、愛していたと思っているあの人間を、実は、こころの底から憎んでいる」って、そう言います。「自分だけ死ぬのは厭だ、あの人間のことも、引きずり降ろしたい。呪い殺してやりた程、憎んでいる」と言います。そして、「こうやって呪っているのは罪か」と尋ねますので、私は「罪だ」と答えました。
 すると、「私はもうすぐ死ぬ。死んだらこの罪から解放されるのだろう」と、さらに聞いてきます。「そうだ。死んだら罪から解放される」と答えますと。「じゃぁ呪っても良いんだナ」と念をおしてから、力を込めて呪い始めます。
 私は、それは違う、と。ほとんど牧師の「職業病」みたいに、キリスト教の教理を一生懸命「説明」し始めるんですが。そんな私の説明なんか聞いちゃいないで。その人は一心に恨んで、憎んで、力を込めて呪って……。そうして、突然、死にました。

 見ていると。その人が死んだら、「呪い」が、パッと消えてなくなりました。呪いのオーラみたいなものが、なくなりました。
 「死んだ者は、罪から解放されています」っていう聖書は、「やっぱり本当だなァ」……と。私は妙に感心しながら、その「罪から解放された人」を見ました。
 ところが……。これは、また当たり前と言えば当たり前なんですが。その人が、どこにも居ません。さっきまでヒトを憎んで呪い殺そうとしていた人が、どこにも居ません。
 目の前には、その人の死体というか……遺骸が、あります。ナキガラは、あります。ですけれども、その死体は、ただの死骸であって。さっきまで憎んでいた、あの人じゃぁ、ありません。
 あの人が、消えてなくなりました。罪と一緒に、消えてなくなりました。未来永劫、消えてなくなりました。あれだけ一生懸命憎んで、呪っていたのに、消えてなくなったもんですから。そうやって憎んでいた過去も、呪っていた過去も、いっぺんに全部、なくなりました。
 「人生が虚しい」ということも、良く分かりました。人生って、虚しいなァ……。あれだけ強く憎んでいても、意味がないなァ……。
 そうしたら、「アレ?」と……。今、ヒトを恨んでいた・あの人は、誰だったか。何か、ごく身近な、しょっちゅうお会いしている・どなたか・だったような気がしてきて。色々なヒトを考えました。学校のPTAとか、教会のみなさんとか、一人ひとりを思い浮かべました。
 それで……「ハ」と気が付いたんですが。
 「今死んだあのヒトは、この俺だった」と。そうと分かって、心臓が縮み上がるような……「ギョ」っとしました。人生が虚しく、この「俺」の命が、いっぺんにすっかり消えて無くなったんです。

V.
 実際の私は……。あそこまで誰かを恨んだり、憎んだりということは。少なくとも今現在は、ない……積もりです。私ァたぶん、もうちょっとお人好しです。
 ただ、ひとから酷い目に遭っているヒトなら。ああやって恨み、憎しみながら死んで行くことも、あるかもしれません。
 どんな死に方でも。「死んだ者は、罪から解放されている(7)」というのは、本当です。夢に出てきた男は、死んで罪から解放されました。
 ですけれども。ああして恨みや憎しみにこころを委ねて死んで行くよりも。たとえば殉教者ステパノのように(使徒7:54以下)。ひとから酷い目に遭っていても。敵のために祝福を祈りながら死んで行ったほうが、ずっと良い……ような気がしました。
 「死んだ者は、罪から解放されている(7)」というのは、本当です。夢の男は、死んで罪から解放されました。罪に対して、死にました。
 けれども、あの男は、「キリストと共に死んだ(8)」のでは、ありません。だから、「キリストと共に生きること(同)」には、なりませんでした。罪に対しては死んだものの、「神に対して生きる」ことには、なりませんでした。
 そういう男の死が、恐ろしい「滅び」と感じられました。滅びというか、虚無というか……。
 じゃぁ私はどうなのか。……私は、夢の男ほど、恨み憎しみに凝り固まっている訳では、ありません。それなのにどうして、あの男を、「この俺だった」って感じたのか……。

 聖書の、ちょっと前の方には、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう(2)」って、書いてありました。
 私ども、洗礼を受けて。罪に対して死ぬことを、神さまから、得させていただきました。まだこの肉体は生きているのに、幸い、罪に対して死ぬことが出来ました。
 そうしたら、私ども、「どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」、罪の中には生きれない。今は、もう神に対して生きる以外に、生きる生き方はない……はずだったんです。
 それでも、……人間関係で不愉快に感じることは、あります。ひとに対して、罪深い思いを抱くことは、あります。それは、自然に湧き起こる気持ちなんだから、「仕方がない」って言えば、仕方がないです。悪い気持ちが湧き起こるのは、仕方ありませんけど……。
 でも、「仕方ない」で済ませていたら。それは、せっかく罪に死んだのに。神に対して生きていない……。消えて無くなる、虚しい生き方でしょうと思わされました。
 やっぱり、神に対して生きたい。それが信仰だったじゃぁないか、と思わされました。

W.
 私どもは、神に生きなくっちゃぁ、いけません。神に生きるには、どうするのか。
 私ども、みんな罪に対して死んだハズです。
 ……私、キリスト教会に、ずっと厭な印象を持っていたのは。私ども、罪に対して死んだハズでは、ありますけど。だから「私は、ヒトを恨むことは、ありません。妬むことは、ありません。憎しみは抱きません」そういうことにしているのは。それは、ただの偽善でしょう……と思うのです。それじゃぁ自分を飾っているだけで、全然、神に対して生きていることには、なっていません。
 信仰者であるからには。自分はヒトを嫌っている、正しいことよりも欲望に従いたいと思っている……って。まずそのことをきちんと認めるべきだ。自分の罪をはっきり自覚しようとするのは、クリスチャンであるための、大前提でしょうと思って来ましたし。自分では、そうして来たつもりです。
 けれども、そこに留まっていては。死に留まっているままです。
 「神に対して生きる」っていうのは。「憎しみなんか抱きません」って、偽善で自分を取り繕うことではありません。しかし、ヒトを憎むのは「仕方がない」って済ますことでも、ありません。
 「神に対して生きる」っていうのは。ヒトを憎んでしまう、この私が。しかし、そういう罪に、もう死んでしまった……と。もう、新しい自分になっているっていうことを、本当に良く考えることでしょう……。
 偽善じゃぁないんですから、ヒトがどう見るかは、どうでも良いです。自分が、罪に死んでいるのか。良く考えることでしょうと思うのです。

 導かれて、「洗礼を受けた」のは。キリストと共に罪に死んで、キリストと共に葬られてしまった……ことだ。だから、神に対して生きる、そういう生き方ができるのだ……と。今日読んだよりか前では、そう言われていました(4)。
 あの夢の男ほどには、私は、ヒトを恨んだり憎んだりは、していません。また、「あの男のような、汚いこころを持っている」なんて。別に、そうも感じていません。
 けれども、あの夢の男と同じように、死に瀕している……。その点は、一緒だと思うのです。
 罪に死んだハズなのに。その罪に絡め取られるようにして、死んで行くのか。それとも、そういう罪を、もう過ぎ去ったものとして、かなぐり捨てて、死んで行くのか(ヘブライ12:1)。洗礼を受けた以上、いつも、そういう死に瀕していて、そういう選択を迫られているんです。
 そういう選択を迫られている。その点で、あの夢の男は私だ……と。そういうことだったと思うのです。

X.
 憎むか、愛するか。私ども、日常生活で、そういう選択の前に立たされます。
 たいがい、まさか憎むまでは、しない。そこまでは、やらない。その代わりに、愛することも……「ちょっと無理だ」で済ませます。
 「クリスチャンだから、愛そうと努力はするけれども。正直に言えば……私の信仰では、まだ出来ません。クリスチャンですから、正直に自分の罪を認めます。偽善で飾ることはしません。私は、憎むまではしていないけど、愛することも出来ません」……って。私ども、たいがいそういって済ませています。
 けれども、「今は愛する」とか、「今は憎む」とか。「今は無視する」とか、「今は考えない」とか、「今は信仰の途上です」とか、そういうことじゃぁ、ない。
 憎むか/愛するか、「選択を迫られている」というのは。自分は「憎んで死んで行く人間」を選ぶのか。それとも「愛して死んで行く人間」を選ぶのか。そういう決断を迫られていることだと思うのです。
 その点で、あの男は「今のこの俺だった」って思ったのは。本当にそうでした。
 ステパノも、そうでした。自分を殺そうと、自分に対して石をぶつけてくる人たちに囲まれて。そういう敵を、「憎んで死んで行く人間」を選ぶのか。それとも「愛して死んで行く人間」を選ぶのか。その決断を迫られていました。
 イエスさまと一緒に十字架に付いた二人の犯罪人も、同じでした。主に結ばれて死んで行くか、憎しみと罪の中で死んで行くか。あれか/これかの決断を迫られていました。
 私どもも。「憎んで死んで行く人間」を選ぶのか/それとも「愛して死んで行く人間」を選ぶのか……。
 洗礼を受けて、キリストの死をこの身に纏っているというのは。実際に死ぬのは、もうちょっとあとかもしれません。けれども、日常生活にあって。隣り人との普段の関係の中にあって。「憎んで死んで行く人間」を選ぶのか/それとも「愛して死んで行く人間」を選ぶのか……。その決断を迫られているのは。犯罪人や、ステパノと……また、あの夢の男と……。私どもは、一緒なのだと思います。

Y.
 ただ私どもは、あの夢の男とは、違います。私どもは、信仰に導かれています。
 「憎む」までは無いけれども、愛することも出来ていない……って。本音を言えば、誰だってそうでしょうと思います。けれども、そのままで済ます必要がない……のは; 私どもは、信仰に導かれていて、キリストの死を、この身に纏っているというのです。
 私どもは……今は、全然元気でも。今、死に瀕したものとして生きることが出来る。死に瀕して、愛か/憎しみか、どちらかを選ぶのと同じように、今、決断できる。私どもは、そのことを知っているのです。

 憎ったらしいヒトが、あるとして。自分が死に瀕している時、その人が隣りに来たら、どうでしょうか。
 死のうとしている時には。憎もうとか愛そうとかいうよりも前に、必死で、復活のキリストさまを探し求めると思うのです。
 死者の中から復活されたキリストさまは、もはや死ぬことがなく、私どもに近付いて来てくださるはずです。もはや死に支配されず、死に打ち勝って死者の中から出てきたかたは、私どもを導いているはずです。そのキリストさまと結ばれて、神に対して生きたいと思います。
 そういう信仰から……。自分が死に瀕している時、憎ったらしいヒトが隣りに来たのを見た時に。私ども、あの夢の男よりも、ステパノになれると思うのです。
 本音を言えば、虫の好かない奴を愛そうとは思えなかった、自分が。愛するひとになりたいと、本気で願うことが出来ている。そういう奇跡が起きている……。
 その奇跡は。この世の命を終える時に、どういう自分で終えるのか。それをはっきり迫られる時に、起きます。そして、今の私どもは。今は多少は元気でも。もう、その選択を迫られている者として、日々を過ごすことができるはずです。奇跡は、私が洗礼を受けた時から、もう既に始まっている。虫の好かない奴を愛そうとは思えなかった、自分が。愛するひとになりたいと、本気で願うことが出来ている。そっちの方向に……。受洗以来、私どもは、もう導かれていると思うのです。

Z.
 「信じる者は救われる」っていうのは、本当です。
 自分はキリストに結ばれたものだと信じて。その死を身に纏い、復活の姿にあやかろうとして生きている者は、救われます。罪に留まって生きるのではなしに、神に対して生きたい……と。こんな自分が、本当にこころから、そう願うことが出来るからです。
 死んだら罪から解放されます。あの男が、死んだらいっぺんに消えてなくなったように。私ども、罪から、いっぺんに解放されます。
 その上……。私どもは、キリストの命を纏って生きることが出来るように。元気な今から、もう既に導かれているのだと思います。

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