聖 書 研 究
ローマの信徒への手紙 第7章



中世エチオピアの写本より


中村栄光教会牧師 北川一明


【目次】

凡例 (別ファイル)
聖書略号表 (別ファイル)
写本一覧 (別ファイル)

T.律法を知っている人たちへの比喩(1-6)
U.律法の意味(7-13)
V.律法の霊性(14-17)
W.分裂した人間(18-25)





ローマの信徒への手紙 第7章


T.律法を知っている人たちへの比喩(1-6)
 A.逐語訳と[本文批評]
1a:それとも知らないのか、 1b:兄弟よ、 1c:なぜなら法を知っている者たちに言う、 1d:すなわち、律法はひとの主となる、生きている時の間。
2a:なぜなら既婚の女は生きている夫に律法的に結ばれており、 2b:しかしもしも夫が死んだなら、 2c:夫の律法から解かれている。
3a:だからそれで夫の生きている時姦通とされる、もしも他の男のものとなったら、 3b:が、もしも夫が死んだなら、 3c:律法から自由である 3d:それは彼女の姦通でない、他の男のものになっても。
4a:このように、 4b:私の兄弟たち、 4c:あなたがたもまた法に殺された、キリストの体を通して、 4d:あなたがたは他の(男の)ものとなった、 4e:死者の中から起きあがらされた者、 4f:神に結実するために。
5a:なぜなら肉にあった時、 5b:罪の熱望が律法を通して私たちの肢体に力を得ていた、 5c:死に結実するように。
6a:しかし今や死んでそれに結ばれていた律法から解かれた、 6b:それでわれわれを霊の新生へ隷属させる、古い文字でなく。

 B.本文批評と語彙
3c:33が「夫の律法から自由である」。
5 :paqhma苦しみ、欲情。ひとの身に起こってひとを強いる力として、欲情の意味で用いられる場合もありながら、キリスト信徒の受ける苦しみにも用いられる。
6a:B他主要写本全般が「死んでそれに(結ばれていた……)」とするのを、Dおよび一部の西方写本は「死に(結ばれていた……)」。6b:「われわれを(Sin、A、C、D、Ψ、33)」を後代写本が「あなたがたを」にする他Bと一部の西方写本は省略する。

 C.釈義
1a-c:nomo"は前章までの議論や「姦通(3)」の語、7:7などから旧約律法ととるのが自然である(ケーゼマンに反してDunn)。しかしその際はローマの異邦人教会を「律法を知っている人々」としていることに困難が生じる。初期キリスト教がユダヤ教シナゴーグから始まった旧約を用いた統一的な礼拝形式を持っていたとしても、ローマ書執筆時には既にコリント教会のように無律法主義的キリスト教会が出来上がっていることをパウロ自身が痛感していたはずである。またここでは旧約における婚姻法を精査批判している訳でもない。そこで「律法」とは、ある程度普遍・一般的法秩序である婚姻を比喩に読者を説得しながら、その一般的秩序概念をnomo"と呼ぶことであたかも旧約以来の真理のようにみせかけ、旧約律法遵守による救済に反対する自分の立場に読者をも誘導しようと意図したものと考えられる。強い語調の弁証対論形式で始めて自説に反対し得ないはずだと読者を挑発する。
1d:読者が抗い得ないそのパウロの主張は、そうした法秩序は生存中のみ有効であるということである。これは二つの意味で詭弁にも近い修辞的誘導である。まず律法が「支配する」という語を用いることで、前章と連続する議論であるかのように印象付ける。罪が生存中のみひとを支配するとされた後に、律法が生存中に支配すると繰り返されることで、読者は罪と律法をどちらも共にひとを生存中のみ支配する「悪いもの」との印象を強制される。しかし後(7:7)にパウロ自身が修正しなくてはならないように、律法は罪ではない。仮にパウロの言うとおり罪が生存中を支配する悪いものであると認めたとしても、律法はそれとはまた全く別に考察すべき事柄である。さらに、本節前半の問いかけが「それとも知らないのか」ときわめて挑発的であることによって、読者は「律法は生存中のみ支配することは、当然知っている」という答えに誘導され易い。しかしファリサイ主義では元来生前の律法遵守が死者の死後をも有効に支配すると信じるが故に、永遠の命のために現世で律法に固執した。パウロを誤解した放縦主義に対する反対者たちも、元来は「律法は生存中のみしかひとを支配しない」と考えていたわけではない。パウロが「当然知っている」と答えさせようとしている主題は、きわめて非宗教的、即物的な世界観であって、旧来の宗教勢力が必ずしも受容し得るものではなかったはずである。
2 :そのように、ややもすれば詭弁ともとれるような導入に続いて示される比喩は、しかし納得せざるを得ないものである。ギリシア異邦人社会の一般的な法秩序のみならず、旧約律法自体が(ファリサイ派の常識に反して、少なくとも婚姻に関してのみは)律法がひとを生存中のみ支配することを示している。それを婚姻の事例によって示す。
3 :1節はともかく2節には同意せざるを得ないのは、ただ「夫の死後には妻は夫から解放される」ということに限られるはずである。妻が夫の死によって夫から自由になっても、妻は律法から自由になるとは限らない。それにもかかわらず、パウロは「妻の亡夫からの解放」を「人間の律法からの解放」にすり替える。
4 :このパウロの意図は本節で明らかになる。パウロの主張は次のようなものではない。すなわち《夫の死後妻は夫から自由になるが故に、われわれも洗礼という死後には律法から自由になった》というものではない。むしろ順序が逆で、われわれが洗礼によって死んでいるという前提は、既に受容されたものとしている。まず律法においては「あなたがた」ローマ教会のキリスト者も既に死んでいることを確認する。それならば、夫が死んだ後にも亡夫に縛られて再婚を拒むことは意味がないのと同様に、キリスト者は律法の呪縛から解かれてこそ、あたらしい夫、すなわちキリストに結びつくことが実質化するのである。その結果、はじめて神に対して聖き実を結ぶことも実現する。律法に留まる限り、生は自己を自己自身によって救済しようとする自家撞着としての罪から逃れられない。律法において殺されていることが「キリストの体を通して」であるとする意味が語られておらず、前章から考慮すれば洗礼によるキリストとの一致を言っているものと思われる。
5 : われわれが自由になる以前の生き方を「肉に従って生きている」とし、「霊に従う新しい生き方(次節)」と対照する。肉/霊の対比は割礼の話題(2:26←→2:29)に際して見られるものの、人間存在の根本として規定するのはここが初出であり、ここから9章まで、死/命の対比として展開される。「肉体が罪の誘惑に(相対的に)弱い」と取れば肉/霊二元論は肉体/精神の二元論に還元されてしまう。しかしパウロの発想は、《人間主体が罪からの誘惑を退けるかどうか》というものではなく、従って《誘惑を退けるか否かによって命を得るか得ないかが決定する》のでもない。罪は《退けうるか否か》というものではなく、既に人間を支配している力であり、旧来の生き方は既に死に定められている。「欲望(epiqumia)」よりもやや価値中立的な「熱望(paqhma)」が用いられているのも、旧来の生が罪の力に支配され動かされていることを強調する。
6 :これに対して今は「霊に従う新しい生き方」という外的力に「隷従」するようになった。それは人間が選び取ったものではなく、人間を支配する力が別のものに移ったのである。その転移の契機は2:27-29の肉/霊の対比で予示され6:3で明示されている通り、洗礼における霊の付与による。キリスト者を支配していた力は肉の力であったがそれが洗礼によって霊の力に変わったのであり、後に8章で詳述される通り、キリスト者は霊における以外に永遠の命はなく(10以下)、倫理的勧告(6:12)もキリスト者が霊性に生きるのでなしには存在の意味も実体も虚しくされるからである。もっとも、洗礼によって「罪に死んだ」ことと「律法に死んだ」こととを同じに扱う根拠は、ここに至っても十分には示されていない。

 D.黙想
  1.アドベント第二主日礼拝説教『ひとはなんで生きるか』のための黙想(cf.Mt2:1-8)
イ) 人の生きる目的は、しばしば「生きる意味を見出すことである」と循環的に言われる。目的が快楽や相対的な善性の追求ではないのは、快楽は死によって終わり、そのために死を前提にしては目的となり得ないからである。地上の命にのみ閉じられた内部には死すべき肉の人の意味はない。そこで死すべき地上の命に限られた中で最も善き生は、ただ意味を求める生となる。
ロ) 意味を見出す範囲を地上の命に限っているならば、人生の、死を超えた結実はない。しかし地上の命を超えた所に意味を見出す範囲を拡げることが出来たならば、そのこと自体が既に死を超えた生の意味を得たことである。それは、縛っているものから解放されてのみ可能となる。
ハ) われわれは世の法の下に生きている。その法とは、限界の設定である故、具体的には共存のための規則として現われる。法の下に生きる者は、新しい秩序の誕生に不安を抱く権力者ヘロデであり、また旧来の法秩序に居場所を見つけているエルサレムの人々、民の祭司長や律法学者である。しかし旧来秩序の中ではわれわれの生涯は結実を見ない。星辰崇拝者たちは、たとえ誤った求め方ではあっても、地上の命にのみ閉じられた世界からの出口を探していた。その結果、本人たちの意図にかかわらず、神への献身ができた(11)。
ニ) われわれは旧来の法秩序から解放されているが故に、聖なる実を結ぶ者となっている。アドベントの期間にわれわれが待ち望んでいるのは、その解放者が世の外から到来した喜びである。

  2.アドベント第三主日(1-4)『天使になる』のための黙想(cf.Mk12:18-27)
イ) 結婚に限らず、社会的人間は、利害と慣行から選択、代替不能の何らかの支配=被支配関係を強いられている。特に男性中心の社会では、夫の生存中夫に縛られているとする事例による比喩は、強い説得力を持つ。そのためこの直喩は女性に当面の希望を与えよう。永生を待望するならば、現世の支配=被支配関係に精神性まで束縛される必要がないことが分かる。
ロ) その反面、有限性に支配された限界をも印象付ける(特にMk12:20-23の「妻」を見よ)。この問題は婚姻や男女の関係のみでなく、人間の外界との関係全てに適用すべきものである。
ハ) 律法と罪とは対立するものでありながら、聖書が律法に支配されていることと罪に支配されていることとをほとんど同義のように扱うのは、この有限性に限界付けられた人間存在を律法の支配下、また罪の支配下と呼ぶためである。永生待望は、そのような人間性にあっての待望に過ぎないのならば、離婚と再婚を繰り返す生き方と変わらない。
ニ) しかし復活とは、そもそも時間を区切られた第二の生ではなく永遠性の獲得である。そこでMk12:18ffで問題になっている「跡継ぎ」に関するヒトの配慮は永遠の命の前では意味をなさない。そのことも、単に男女関係あるいは人間関係からの解放のみでなく、人間存在の有限性からの解放と受け取ることが出来る。人間性(罪性)からの永生待望でない霊的待望は、ただキリストの支配によってのみ可能となる。
ホ) そんなキリストとの出会いは、人間同士の愛による出会いによって現在化するものであろう。そのキリストを背景に持つ愛とは、支配=被支配関係を要求するものではないため、必然的に献身愛となり、それ以外のものではあり得ない。われわれは、そのような愛に方向付けられているが故に、解放と永生を克ち得るのである。

  3.クリスマス前主日(4-6)『聖夜』のための黙想(cf.Lk1:46-55)
イ) 商業主義による装飾と酒宴、恋愛など、待降節の夜には欲望のイメージがつきまとうが、それらは必ずしも否定的なものとは限らない。華やぎ、優しさ、あたたかさ、懐かしさなど、肯定的な印象も担っている。クリスマスが、「愛」について将来に向かって希望を開いている面のみに目を向けることが許されているのはバレンタイン・デーと同じである。しかしその期間が長く、かつ年末師走で時の移ろいを感じさせられる中で楽しむことができるからであろうか。
ロ) (そのクリスマスは、今やクリスチャンのみが喜ぶものではないばかりか、むしろ未信者が自由に愉しんでいる。仮にクリスマスを正当に楽しむ信仰的な楽しみかたがあるのならば、未信者の愉しみは、そうした本来の者とは言い難い。それでも)未信者さえもクリスマスに悦ばされることは、個人の功績(信仰を持ったということ)によらず、ただ外的力によって、何らの代償もなしに華やいだ気分に浸れるという意味で、キリスト教の救いの教理を隠喩的に象徴する。(クリスチャンがクリスマスを愉しむ世人を非難するならば、それは目に丸太のある偽善者が兄弟を裁くに等しい(Mt7:5)。)
ハ) 信仰の無い者がひとときの悦びを味わうことで何を求めているかを思い遣れば、救いを求めていることは万人に共通である。より究極的な幸いを、いわば「わたしの魂は主を求め、/わたしの霊は救い主である神を待ち望みます」という気持ちで求めている。未信者はそんな幸いを半ば諦めながら希求するために酔いしれ、キリスト者たちは信仰から、または高慢と偽善から諦める必要はないことにして楽しんでいるのである。
ニ) そんな究極の幸いは、何によって得られるかと言えば、世の富を持つ者が時の移ろいを思いながら愛を慕い求めていることから、物理的なものではないことは明らかである。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます(Lk1:47)」という平安の完成を持っていた者は、生活の上では私生児の母となる困難を抱える危機にあった。それにもかかわらず、それを得たのである。マリアは聖霊によって妊娠したことを、畏るべき主(同50)が自分に偉大なことをした(49)と受け取った。
ホ) 主を畏れる時、主の業が見えるようになる。その時権力者は権力が永遠の前では意味のないことを知り、身分の低い者が神に尊い者として受け入れられていることを知る(52)。また飢えた者は満たされることを知り、富める者はその富の無意味を知る(53)。しかし主を畏れることを知ろうとしない者、または主の畏るべきを認めようとしない者は、せっかくの権力や富が、本人に対して恵みとしてでなく情欲として働く(Rm7:5)。その結果、信仰の平安は得られず、永遠と救いを希求しながらも絶望せざるを得ないのである。
ヘ) しかし今は(6)、神の御子が与えられ、神の約束(Lk1:54f)が実現して究極の幸いが可能となった。その幸いは絶対のものである故、相対的な権力の交替ではない。われわれのうちの死に至る思いを滅ぼす(Rm7:5)神への畏れが、キリストを通して、信仰をもって見ることができるようになった。
ト) 救いは、信仰によって、キリストを通して見ることができる。それは主を畏れることに始まり、霊に従う新しい生き方で神とひととに仕えることとなって結実する(6)故、野放図な欲望の追求とは逆の方向を辿る。それでも信仰者の確信する救いも、また無信者の希求する救いも、神を畏れて永遠に触れることであろう。クリスマスの担う肯定的なイメージが、ひとを愛と献身へと導くことが望まれる。
チ) 我々は、そうした新しい生き方の先魁となって神の栄光を証しすべき存在である。人間個人の目的は、聖なる生活の実を結ぶことであろう(Rm6:22、7:4)。それは、神を畏れることにおいて、われわれに既に実現している。本来の存在の通りに生きる時、われわれは自我の統一をみて永遠の幸いをこの世にありながら受け取ることが出来る。

U.律法の意味(7-13)
 A.逐語訳
7a:では何というだろうか、 7b:律法は罪か、 7c:そうはならないだろう、 7d:むしろ律法を通さなければ私は罪を知らなかった、 7f:なぜなら、もし律法が言わなかったら欲望を知らないままだった、 7g:むさぼるな(と)。
8a:が、罪は掟を通して機会を得、私のうちにあらゆる熱望を起こした、 8b:なぜなら律法なしには罪は死んで。
9a:が、私はかつて律法なしに生きていた。 9b:が、掟がやって来て罪が再生した。
10a:が、私は死んだ、また命への掟を知った、 10b:死へのものであると。
11 :なぜなら罪は掟を通して機会を得、私を迷わせまたそれを通して殺した。
12 :このように、律法は聖であり、また掟は聖であり、義であり、善である。
13a:それで善なるものが私に死となったのか、 13b:むしろ罪が。 13c:罪が輝くために、 13d:善なるものを通して私に死を齎した、 13e:罪が限りなく罪深いものとなるために。

 B.本文批評と語彙
7a,b:33は「では、何というだろうか、律法が罪とは。」
epiqumia(7,8)熱望、情欲。パウロ書簡では10回中2回Lk22:15に倣った肯定的用法であるが、ローマ書では特に肉と結びつけられることが多く、当該箇所の他の4回は全て否定的に「情欲」。
8b:F、Gが「死んだものである」を補う。
katergazomai(8,13)完成する。ここでは生み出すの意味で。
aformh(8,11)きっかけ、機会。 「機会をとらえる(aformh lambanw)」は一般的に用いられるが、新約中ではパウロの好む語(6/7)。「肉に罪を犯させる機会(5:13)」などおもに否定的用法で、肯定的にもやや逆説的に「誇る機会(2Co5:12)」。
exapataw(11)騙す、惑わす。ひとを真理から逸らして誤った判断に導くことであって欲望に誘うことではない。Gn3:13はapataw
uperbolh(13)過度、極度、計り知れない、最も優れた。

 C.釈義
7a:形式を見れば6:1、15に似た弁証対論が続く。しかしここでの問いは既に論敵を意識したものではなくなっており、律法の意味を問うパウロ自身の設定したテーマである。このテーマは人間に対する罪の威力として25まで続き、その意味では律法論であると同時に「人間論(ケーゼマン)」とも言えよう。ただしその前半(7-13)は、罪と律法との関係における律法の意味を論じている。
7a-c:パウロは最早旧約ユダヤ教の大前提である律法の正当性をもタブー視せずに俎上に載せてラディカルに確認しようとする。このことから、既存宗教勢力の律法理解とは根本において異なる。しかしながら、パウロはマルキオン主義でもない。律法は、今や新たな理由で「罪ではない」のである。
7d-g:律法の有用性は、一見「罪を認識させるため」とも受け取ることができる理由で弁証される。律法を認識論として弁証するために「むさぼり」多くの掟の中の一例として例示したとするならば、律法の有用性は上の理解で足りる。しかしその場合は律法は積極的には「善いもの」とされ得ない。律法の目的は、単に罪を認識自覚させることではない。罪の正体が背神であり自己集中であることを顕在化させることである。「むさぼり」は罪の一例ではなく罪の核心である。そして律法は、われわれの違反行為がすべて「むさぼり」から出ていることを自覚させるだけでなく、その罪が我々自身の命と救済を妨げる神からの離反であることを暴露し、さらにはわれわれがその罪に逆らうだけの能力がないこと(14以下)を明らかにするのである。
8a:「掟を通して……欲望を起こした」とは、「律法が誘惑したために罪に陥った」ということではない。上述の通り律法は罪へと誘惑するものではなく、罪の何たるかを示すものである(cf. Jms1:13-15)。律法を通して、われわれが罪を犯しているのが「むさぼり」によることが分かるのである。
8b,9a:「罪は死んでいる」という以上の説明がないために、印象深い反面その真意がはかりにくい。論理的には「律法がない限り人間は罪を知り得ない」という認識論上の意味が語られている。罪の認識がない段階の異邦人は罪の重大性についても無知であり、そうした者に対して「罪の認識」が語られているのならば、罪を認識する必要が理解されない。そのために、「律法は罪ではない」という前節の答えが弱まる。しかし人間の最大の関心を神との関係にあるとしているイスラエル的人間観に立った時に、罪を知らないことが初めて重大な人間性の欠落となる。律法によって罪の認識を生じせしめる律法がない限り神との関係が「死んで」おり、それ故に罪も意味がなかったのである。したがって「律法と関わりなく生きていた(9a)」とは即「神と関わりなく生きていた」ことを意味する。そうした生は生き物としての意味以上のものを持ち得ない。
9b:そこで、ここで語られている罪の認識は、パウロの個人的経験の回顧でもなければ、ユダヤ教における成人前/後の律法に対する責任の問題でもなく、人類普遍の問題である(Dunn、ケーゼマン)。ただし、ここをイスラエル民族の範囲を超えて語られているものとした場合には、「掟がやって来た」契機が定めにくい。イスラエルにとってはモーセ律法であり(Rm5:14)、その点がイスラエルの他民族に優位な面となる(3:1)。しかしこの優位は義とされることの優位ではなく、自己の罪の認識を通して神を知る優位である。それに対して義とされることについては、モーセ以前にアブラハムにおいて既に約束されており(4:13)、それはイスラエルに限らない(4:10f)。異邦人はキリストを信じない限り「罪は罪と認められない(5:13)」まま死に支配されている(5:14)。異邦人が掟を受け取る契機は(語られていないが)キリストを信じた時とならざるを得ない。
10 :律法は人間を人格的生へ導くものの、律法によっては罪を克服し得ない故、その生は死に支配されていることを自覚する生となる。掟なしにはそのような生はない故に律法は「命への掟(a)」であるが、それと同時に「死への掟(b)」でもある。自我意識は自己の有限性と死への意識でもある所が人間の根本的なジレンマであり苦悩である。この節がそのジレンマを前提にしているのならば、掟によって「私」が知ったことは、掟がただ「死への」ものであるという律法の否定的側面だけでなく「命への」ものでもある。しかしわれわれにとっては「死」は、律法の肯定的側面を無意味なものにしてしまう。
11 :節の前半は8aと逐語的に一致する。律法によって回生した罪は、8では「熱望を起こした」とされており、それがここでは「私を欺いた」と言い換えられている。パウロが創造物語の蛇を連想して罪と蛇とを重ね合わせて擬人化したと考えればメタファーとして理解し易い。しかし1Tm2:14がパウロの蛇理解(もしくはそれを継承している)とすれば、exapatawは罪の擬人化というよりも罪によって「わたし」が真理から逸脱したということであろう。「殺した(死なせた)」はaoristで、神罰を受けて死に定められているというよりも真理からの逸脱が即ち背神であり、死せる状態であることを示している。
12 :特に10で示したように、律法の肯定的側面は、単なる罪の自覚を促すものというだけではない。神に対峙する人間自我を形成させた上で、さらに律法が神に背くことを誡めているとした時、律法が人倫を超えた聖性を有することが理解される。そこで、罪とは(律法に誘惑されて)欲望に負けることではなく、神に対峙する自我の形成を「熱望(8)」することが、神を神とすることと対立するという点である。律法は、自我形成可能な人間の尊さと、それによって堕落する原罪を明らかにする。「律法」と「掟」が区別され、「律法」については「正しく、そして善いもの」かどうかの判断がなされていない。7で示した通りパウロは律法の正当性を問い直すのであるが、その結果は上で述べた通り律法は極めて聖であり、神のものである。従って「正しく、そして善いもの」は律法から出るのであって、われわれが律法を判定するのではない。われわれに判断取捨選択が許されているのは、律法から派生した掟についてのみであり、その掟も結論としては「正しく、そして善」であった。
13 :従って、当然のことながら聖なる律法がひとを死に追いやったのではない。そのことが7の問いを《律法=善いもの》《罪=死をもたらすもの》と言い換えて繰り返される。聖なる律法を用いて罪がひとを死に追いやった。fainwuperbolhの語が罪の邪悪さを強調する。パウロの論述が(その意図の如何にかかわらず)律法の正しさを擁護することよりも罪の破格な力を示す結果になっている。

 D.黙想
  1.5-8節説教『罪が分かった』のための黙想(cf.Gn2:18-24)
イ) 殺人が何故「悪」であるかは、神の律法を持ち出さない限り説明し得ない。(一般には《@自分が殺されたら困るから/A人間の本来性を漠然と信じればそれが「悪」らしく感じられるから》のいずれかである。)しかし「初めに言葉があった(Jn1:1)」ことから、言語命名論的実在論の立場を取らず、ここで仮に言語決定論的唯名論に立つならば、神の律法によって殺人は「罪」に「分類」されることになる。
ロ) 律法はわれわれの行動の根本を「むさぼり」と教示する。すなわち自己追求が人間同士や神的秩序との対立を生む。もっとも「言葉」が外界を分節体系化するだけものであるのならば、「罪」に分類されたところで、ただ説明が可能になっただけで良心の痛痒には至らない。
ハ) しかし「初めにあった言葉」は生きた命である故、罪も命を得ることになる(Rm7:8)。罪は単に定義ではなくわれわれを生きて苦しめるものとなった。それ故にこそ、「律法は罪であろうか(7)」という問いは切実である。それでも義なる神の律法が罪であるはずがない。「むさぼり」を教えられなければ、われわれの生は非人格的な単なる生物学的な命でしかないものとなる。言葉によって意味が与えられたからである。われわれは本来他者と一致するために造られているのであり(Gn2:22、24)、そのために罪が良心の呵責となる。
ニ) ところが、言葉の命は罪だけではない。神の受肉は、人間本来の一致を回復を、神が中心に介在することによって実現した。

  2.7-12節説教『律法に由らでは愛を知らず(異質性の受容)』のための黙想(cf.Ecc12:13,14)
イ) イエス・キリストによる救済とは、愛が必要でありながらそこに留まり得ないわれわれを神が愛したことである。神を畏れることが全てでありながらも(Ecc12:13)そこに留まり得ず神から離反するわれわれが、そのままで愛され赦されている故に祈りによる神との交流を志し、得ることが出来る。
ロ) 掟は愛に要約される(Rm13:9)。われわれは「愛の掟」によって愛することが出来ないことを知る。愛とは他者の同質性をでなく異質性を受容することだからである。われわれはただ異質性の受容において神的聖性と触れることが出来る。そして愛することの出来ない自己を知った時、律法によって死んでいた罪が生き返り、われわれを死に導くことが分かる。
ハ) しかし「愛しなさい」という掟が「罪」なのではない(7)。この掟の故にわれわれは憧れるべき命を知った。律法を知らない間は、単なる身内への愛に過ぎなかった。今われわれは律法を知る故、真の愛とそれの無い自分を知る。
ニ) そんなわれわれを神が愛し、救済した。すなわち、異質性のみならず背反さえ受容したのがキリストである。キリストの愛に触れた時、この堕落した祈りが受容されていることを悟り、その結果はからずも霊的一致へと取り戻されている。

  3.9-13節説教『善いものを通して見つけたもの』のための黙想(cf.Gn3:1-7)
イ) 神はひとを御自身の似像として創造し、これを祝福し、極めて良いと認めた(Gn1:27,28,31)。律法は、その人間に命をもたらすべきもの(Rm7:10)でありながら、それによって死に至る結果になっている。命を得ることと死に至ることとは対極にある事柄でありながらも、律法との関係においては極めて密接に関係する事柄である。自由を与えられた人間が自由かつ自発的に神に従って生きれば良いにもかかわらず、自由は「従う」こととは対立する。命を得て自由に自己を確立する欲求は、神に逆らうことを要請する。
ロ) そしてわれわれは、神に逆らうことで自由を得、神に対立する自己を確立した。それ故にこそ、確立した自己を失う「死」を恐れるようになった。さらに死は全ての者におよぶ避けられないものである故に、われわれは死を厭い、遠ざける。そのことによって永遠と霊性を遠ざけるため、われわれの生は刹那的になり、いよいよ命から遠ざかっている。教会で、霊的な祈りを祈ることを疎ましく思いながら安心立命を祈っても、その祈りは信仰とは無関係の単なる欲望の表明に過ぎない。
ハ) 邪悪なる罪(13)を、われわれが克服することは出来ないのは、上の自己確立の構造上必然である。しかしその一方で、神の完全性は、律法によってわれわれを命に導くことがあり得る。それは、われわれの克服する力によるのでなく、神の全能により、ひとり子キリストの介在による。善いものを通して罪が死を齎すのであって、善いものはキリストによって命をもたらす。
ニ) キリストへの信仰にあっては、献身愛を志す。それは他を排して自己を確立することでないにもかからず、自己を確立する道である。その道は、自己の力量で歩めるものではないが、その道に逆らう自由を有している以上、神の導きに逆らってはやはり霊的自己確立はない。キリストを愛するとは、死を遠ざけ無視することでなく、献身を志すことである。
ホ) キリストによって、われわれが見るものは、限りなく邪悪な罪が、無力の極みである自己放棄によって克服された逆転である。そしてわれわれが祈り願うべきは、このキリストを愛し、キリストに従う力を与えられることである。


V.律法の霊性(14-17)
 A.逐語訳
14a:なぜならわれわれは知っていた、律法は霊的である、 14b:が、われわれは肉的である、罪に売られていて。
15a:なぜならそんな私はやってきていることを知らない、 15b:なぜなら私は事を望んで為さず、 15c:逆に事を望まずに為す。
16a:が、もし望まぬ事を為すならば、 16b:律法を麗しいと同意している。
17 :それで今やそれをやっているのは私でなく、私に住みつく罪である。

 B.本文批評
14a,b:33は「知っていた(oidamen)」をoidamenに分けてmen-de構文にするため、「われわれは一方では律法が霊的であり、他方われわれは罪に売られて肉的であることを知る」。 14b:「肉的」はsarkino"(Sin2とコイネー多数派)とsarkino"(他の主要本文)がある。
15b:西方本文(D、F、G)がbのみ「事を」を省く。
16b:「善と」をF、Gが「善いものであると」。
17 :oikousa(A、C、D、F、G、Ψ、33)をSin、Bがenoikousa

 C.語彙
sarkino"(14)肉。ただし素材としての肉体を指示するものでなく、人格としての命の宿る素材。従ってこの語の示す対象自体が「罪」の元となるわけではない。それにもかかわらずsarkino"は罪と関連付けて語られる。人間を神の被造物として創造主に従わない生は、いかに独自に善を企図しようとも、被造物の内に命の根元を見ようとする逸脱である。そこで被造物としての肉に規範づけられている行動とは、はかない無常なる相対性を絶対化、神格化することである。そのような意味でのみ、罪の根元はsarkino"と結びつけられるのである。
pneumatiko"(14)霊。パウロにおいては原則的には霊は人間を構成するyuchとほぼ同義に用いられるものと、神の霊として用いられるものと全く別である。それでも人間の「霊」が「肉」と対比して語られる。その場合は「霊」を用いて肉以上に高級な精神性を示しているのではなく、また人間存在の中核にある特殊な器官のみを指しているのでもない。上の「肉」との対比で考えれば、創造者を志向する人格の意味である。
katergazomai(15、17)完成する、実行する。新約聖書全22回中Rmに11、うち本章に7。ここでは何ものかの原因によって必然的にもたらされる結果としての実行。被造成を逸脱した罪の内に善を志向しても、その行動は目指すものとは異なる結果を生むことを強調するために、ここではこの語が用いられているのであろう。

 D.釈義
14 :律法が霊的なものであることを自明のこととしてまず宣言することによって、律法が善であること、人間に死がもたらされたのが別の原因であることを議論の余地のないものとする。そこで罪がなぜ律法を悪用できたかが問題となる。行為義認を批判してきたローマ書の文脈では、律法主義的律法理解がただちに想像される。しかしここで述べられるものは、霊と文字の対比ではなく霊と肉の対比である。「罪に売られていて」の語は「罪の奴隷(6:16ff、6:6)」から出たメタファであろうが、「誰が人間を罪に売り渡したか」までは問題にしておらず、それはむしろ人間の生の必然である(5:12)。人間はその存在様態に縛られて、永遠性、聖性をではなく此岸的な事柄を認識、判断、行動の規範にせざるを得ない。それが罪に売り渡されて肉的になっているということである。すると律法を用いたとしても、それを正しく扱うことができず必ず律法主義となる。肉的であることが罪の根元なのではなく、むしろ逆で、肉自体は霊と同じく被造の器官であるが、それが罪によって判断規範とさせられているのである。これを「肉の欲望」と言い換えることができるが、その場合も決して「肉欲」を罪悪視しているのではなく、「肉的判断」が罪の根元なのである。
15-16a:前節をgarで証拠立てとして語っている。パウロは自身の現在までの行ないを思い起こし、それが理解できないとする。15b,cは後に19で「善を望んで行なわず、悪を望まずに行なう」と説明する。しかしここでは、ただ願望と行為とが逆転していることだけを、それも抽象的に示すに留まる。そこでこの段階で説明されるのは、自身が「罪に売られている」ということである。
16b:パウロが先走って19fを既に前提として18d,eと同じ内容を先に述べているのならば、「律法を善と同意している」と訳して(新共同訳)良い。しかしわれわれは、必ずしも律法を実行したい訳ではなく、むしろ律法は実行困難で、それを課せられるのは苦痛である場合もある。実行したいか/したくないかにかかわらず律法は善であり聖であることを、パウロは既に宣言している(12)。願い意志することが実際に行なうことと逆になっていることを一般的に示す(前節)ことによって、実行しないで実際は疎んじているものであってもそれを美麗なものと認めている可能性のあることを、ここでは指摘しているに過ぎない。
17 :このように、やや強引にわれわれが律法を望んでいる可能性があると誘導し、そこから本節の推論に至る。罪であるはずのない律法をわれわれが望んでいるのならば、律法を実行しないのはわれわれ自身ではない。従って、このegwは肉の人としての私(14、新共同訳)ではなく、今は肉的になっている罪に売り渡された「私」である(14節釈義参照)。すなわち、「私」は罪に売り渡された場合に肉的になり滅びに至るが、霊的である可能性もあったものである。

 E.黙想
  1.13-16節説教『霊に生きている』のための黙想
   a.教理黙想
 善なる律法とは煩雑な祭儀規則ではなく「神と隣人を愛せよ」を中心とした人間に神の祝福をもたらすためのものである。しかしそれは愛せば合格するというようなものではなく、愛するとは何を為すことであるかを自分自身に問わせるものである。  善なる律法が死をもたらすのは、「愛せよ」との命令を聞いたとき、生の答えを得たように思って自分自身に対する問いを忘れてしまうからである。それでは動的生命活動は静止してしまう、すなわち死ぬ。  動的生命活動を停止させるのは、肉に留まっている故、すなわち絶対者の聖性に自己が脅かすことを嫌って神になしで自己を判断するからである。  しかしキリスト者とは「霊的なもの」を知っている存在である。これを実現させたのがキリストの十字架と復活である。自分自身に問い続けることは、自分自身が変わり続けることであり、それは過去の自己が破壊され続けることである。その破壊が、破滅ではなく新生である喜びを知っているため、われわれは喜びとして問いを持ち続けることが出来るのである。
   b.説教黙想
イ) 仕合わせとは労働し、感謝をもってその実りを神に捧げ、また労働にかえる生活であろう。神に感謝を捧げる時、「神と隣人とを愛せよ」という祝福に還ることが出来、隣人と愛とを得る。
ロ) ただし「神と隣人とを愛せよ」とは、永遠に自分自身は何を為すべきかを問い続けることである。この問いを問うことが、われわれの命であり喜びである。
ハ) 人間は、この律法を問いとしてでなく答えとして受け取った。そのために命をもたらすはずの「神と隣人を愛せよ」という掟さえ、人間に死をもたらすことになった。作り上げた自我が脅かされることを恐れるからである。
ニ) 聖書はその恐れを肉の思いという。愛には恐れはないはずである(1Jn4:18)が、われわれにはそのような神的愛が無いからである。しかしわれわれは、霊を知る。キリストの十字架が、この肉の思いを赦さない裁きの力で迫るからである。
ホ) そこで悔い改めて問いを問いとして受け取り直した時、われわれは新生の喜びを知る。問いとは、過去の自己を作り替えて新しく生きることだからである。
  2.14-20節説教『無力な傍観者』のための黙想
   a.教理黙想
 神と罪とに引き裂かれた人間の分裂状態が人間の悲惨である。この責任は当人にではなく外来の罪にあるとすれば、われわれは自身を罪の被害者であると訴えることは可能である。人間は尊い志を抱きながら、不当な罪に苦しめられているのである。  しかしそのことで罪の悲惨さから救済される訳ではない。むしろ、悪の責任が自分自身にないことを言い立てるならば、自分の力ではこの悲惨さから救われ得ないことも同時に告白せざるを得ない。  キリストの血によって贖われている者とは、尊い志を抱いている者のことではない。志は贖罪と無関係に抱き得るが、罪によって、自分自身の行動は常にその志に裏切られる。  しかしキリストによって罪を贖われたとは、罪と無関係になったのでもない。キリストへの信仰に頼ることで、キリストの死に与れることになった。「罪に死んだ(6:11)」者は、キリストの死に自らも与る(6:3)のである。そのことに依って、罪を外来のものとして不法の責任を負うことが出来ず、したがってそれを克服することが出来ないでいた悲惨な者が、罪の責任を自らに問い、霊の律法に従う決断をするように変えられたのである(6:15ff)。  キリスト者は、その悪行が問題にされないのではなく、今やその悪行の問題性を問い、悔い改めて悪から離れることが出来るようになったのである。
   b.説教黙想
イ) たとえば大病院で人事組織の中に組み入れられた看護婦に象徴されるように、尊い志を抱きながらも行動によって常に自分自身に裏切られ続けるのがわれわれ人間の生であるように感じられる。
ロ) これはわれわれの意志、勤勉さ、努力の不足ではなく、人間存在の構造が抱える矛盾である。それ故背徳を道義的に責めることが出来ないとしても、志が正しいことを言い立てても、かえって自己の分裂状態を際だたせるだけである。この構造矛盾を克服しない限り、人間は自分自身の不幸に対して傍観者にならざるを得ない。
ハ) キリストの血によって贖われることで、われわれは傍観者であることから救い出された。肉とは先に見たように被造物の内に命の根元を見ようとする逸脱である。この逸脱が、キリストの十字架によって断罪された。
ニ) キリストによって神を知ったわれわれは、今や、相対的な自己の欲求が絶対的なものとしてわれわれを支配することを拒む。真に絶対のものについては、ただキリストの生において予見し得るに過ぎないため、現実には未だ尊い志をその通りに実現させることは出来ない。それでもわれわれは自らの罪を憎み、希望をもって善を志し続けることが出来る。

W.分裂した人間(18-25)
 A.逐語訳
18a:なぜなら、知っているから、私の中に住んでいないことを、 18b:それは私の肉の中である、 18c:善が、 18d:なぜならそれは私に為そうと望みながら、 18e:しかし良いことができない。
19a:善を望んで為さず、 19b:むしろ望まぬ悪を実行する。
20a:が、もし望まぬ悪をことを為すならば、 20b:もはや私が実行しているのではなく、むしろ私の内に住む罪が。
21a:それで律法に気付く、 21b:良いことを為そうと望みながら、 21c:私に悪がある。
22 :なぜなら、私という人間の中に於いては神の律法を喜んでいるが、
23 :が、別の法を見る、私の五体にあって理性の律法に闘いを挑む、私の五体にあっては罪の法に私はある。
24a:私という惨めな人間、 24b:この死の身体から誰が私を救うだろうか。
25a:しかし、神に感謝、私たちの主イエス・キリストを通して。 25b:このようにして、私は一方で理性で神の律法に隷従し、肉で罪の律法に。

 B.本文批評
18c:「良いことを為すことが見出せない(D、F、G)」。
19b:「望まぬ悪」に代わって「憎んでいる悪(F)」または単に「悪(G)」。
20a:「私が(望まぬ)」を入れるもの(Sin、A、Ψ、33、1739)がある。
22 :「神の律法」に代わってBは「理性の法則」。
25a:「神に感謝(cari" de tw qew)」に代わってSin、A、1739は「神に感謝をささげる(eucaristw tw qew)」、Dは「神の恵みなるかな」、F、Gは「主の恵みなるかな」。 25b:Sin、F、Gが「一方で」を省略。

 C.語彙
parakeimai(18、21)準備がある 何事かに対して既に準備ができている状態。ここでは善を為す準備が出来ているが、それに対して行為の結果を表わすkatergazomai(18、20)では悪を為すとしている。
sunhdomai(22)喜ぶ 接頭語sunがつき関係にあって喜ぶこと。そこで「お祝いを述べる」にも使用。ここではsunをとっていないことから平野保は「賛成する」を主張。
esw(22)中に 本来は物理的な内/外であり、教会組織の内外にも用いられる。イエスの言葉として悪の由来を人間の内/外に結びつける部分がある。当該箇所の「内なる人間」とは、とりあえず人間の実際の状態とは別の本来のあり方と捉えることができる。しかし2Co4:16での内/外の対比で外なる人は滅びると言われていることからは、「人間の実際の状態」と言っても神に背く罪なる状態ばかりでなく物理的に死に方向付けられていることも指している。するとその対比である「内なる人」は霊的な永続性を想定したものである可能性がある。
主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(25) 神に対する感謝の意の表明は、Rm1:8; 14:6、1Co1:4; 1:14; 14:18、Phl1:3、1Th1:2; 2:13; 3:9、2Th1:3; 2:13、Phm1:4ではeucaristew tw qewが用いられ、パウロ以外でもEph1:16; 5:20、Rv11:17はこの言葉。1Tm1:12ではイエス・キリストに感謝。当該箇所のcari" tw qewはRm6:17; 7:25、1Co15:57、2Co2:14; 8:16; 9:15と2Tm1:3、1Pt2:20。「イエス・キリストを通して」は他に1:8。

 D.釈義
18 :パウロにとっては8:11の通り人間は内在するキリストの霊によって贖われてこそ、その身体が滅びへの隷属から自由になる。そこで本節の主張はキリストの贖罪から離れた不信仰にあっての場合に限られたものであることになる。肉とは邪悪な欲望(Barrett)ではない(語彙)。また「知っている」は教義を定式的に表現している(ケーゼマン)とするのは「既に準備している善をなそうと意図したにもかかわらず結果はそれを実行していない」という生活感を伴う表現にそぐわない。不信仰に引き寄せられる信仰者の現実をパウロ自身の実感と共に語っているのであろう。
19 :本節は、いっけんして15の要約にも見える。しかし15では望むことと行なうことを特定していないが、本節の簡潔な表現が、15で望んでいたことが律法に適った「善」なることであり、憎んでいたことが律法に反する「悪」なることであることが明かされる構造を取っている。18d,eの実感的な表現によって、15、19の畳語が説得力を増す。
20 :さらにまた16、17を繰り返しながら要約する。繰り返しの表現が、「わたしの中に住んでいる」「わたしではない」何ものかが実在することを印象づける。そのため責任転嫁の印象を与えることは否めない。ただし、そのためにわれわれが罪に引き裂かれた分裂状態にあること、それに対してわれわれ自身がほとんど「無力な傍観者」でしかないことが痛感させられる。
21 :本章の文脈から言えば、ここでのnomo"は普遍的な法則とする新共同訳やケーゼマンに反してDunnの指摘通り旧約律法を指す可能性がある(22、23参照)。すると律法は善行の規範を示す一方でそれを為しえない人間存在を表現していることになる。律法が単純な行動指示書ではなく神とひととの正しい関係を表現しており、その中には罪論も含まれているとするならばそれも当然である。しかしその反面こうした律法理解は律法擁護の目的からは複雑に過ぎる印象がある。律法によって、人間の生が死に支配されているものであることが明確になった(10)ばかりでなく、その死の原因が「わたしに付きまとう悪」であることがここで明示される。
22 :新出の概念「内なる人」は、ただ「神の律法を喜ぶ内面性」としか分からない。2Co4では「日々新たにされている」はずの「内なる人」がここでは分裂している。ここでの「わたし」「人間」は(7:7-25全般に言えることだが)キリストの贖罪を得る以前の状態をパウロが仮に想定して書いているとされることがある。しかし洗礼の有無にかかわらない人間の罪性と捉えないでは2章以来の人間の不義が全て救われる以前の最早問題にする必要のない他人の悲惨になってしまう。洗礼の有無にかかわらず人間はその内面性においては普遍的に旧約律法にあるような神の意志を喜ぶのである。そうした意味で、パウロは21以来の「律法」を「普遍的法則」と重ねて把握している。また
23,24a:ここで「理性の律法」と「別の罪の律法」という新規概念が登場する。また一方が他方に「闘いを挑む」のも新しい。「理性の律法」「別の罪の律法」は、24でそれぞれ「神の律法」「罪の律法」と言い換えられる。8:2には「霊の律法」「罪と死の律法」があるため「理性の法」は「神の」「霊の」律法であることがまず考えられる。ただその場合はnou"(一般には「理性」)を神性、霊性と同一視する危険が生じる。パウロは単に1:28、12:2のような意味でnou"を「意欲する方向」として捉えているとすれば文脈によく合致する。その際nomo"は最早「旧約律法」は表わし得ないので、ここに至っては「法則(新共同訳)」である。
24: 自分を「なんと惨めな人間なのでしょう」としていることから、23の「闘い」には破れている(または必ず負けることになる)と見ていることが分かる。道徳的完全を追求し、行為においては実現していたパウロが、それにもかかわらず「意図の法則」が「罪の法則」に打ち克ち得ないとする以上、ここでは道徳的な行為(は含むとしても)それ以上の人間存在の義に対する無力が言われている。そこで前節の「意図の法則」と「罪の法則」の闘いも、単に道徳的理想と肉欲との間の葛藤ではない。罪の決定的な支配と、それにもかかわらず神へ憧れる霊性が言われている。この両者がありながら、しかし人間は神の裁きに全面的に直面しているわけではなく、ただそれを予見しているに過ぎない故、無力でいっそう惨めである。それ故「罪の人間」は「死の身体」に支配されている。そんな人間が神と関係する所は、ただ罪を犯した相手に赦しと救いを求めること以外に残っていない。
25 :24bの反語は当然「誰も救い得ない」という否定的な答えを期待する問いである。この当然の答えはそのまま残っている(25b)にもかかわらず、パウロは神への感謝を表現する。誰も救い得ない死の身体を纏う人間に対して、主イエス・キリストを通して、前節で願い求めていた神が現われたのであるから、この25aは論理上はつながりが分断されていても信仰の逆説として何ら問題はない。特に「イエス・キリストを通して」が、本来神に感謝さえ捧げ得ない人間をキリストが仲裁したことを示している。この節で問題となるのは、25aの賛美にもかかわらず、なぜ25bで再び前節の反語に戻ったかである。a/bを逆転させれば25aはそのまま8:1につながるが、異読においても文の入れ替えはない。罪に支配されている現実を感謝のうちに静かに振り返ることが可能になった(矢内原忠雄>>>加藤常昭)ということであれば、その叙述は次節以下に強固に結びついていると見るべきであろう。すなわち「このように心では神の律法に仕えていながら肉では罪の法則に仕えているわたし自身ですが、今や、キリスト・イエスに結ばれて罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです(25b-8:1,2、新共同訳の語彙を使用)」と読むことで、7:25a-8:2の中への25bの不当な挿入、または7:18-7:25bの中への25aの不当な挿入の問題は解消される。

 E.黙想
  1.救いを要する分裂した人間(19〜24)
説教『わたしの思いでなく』のための黙想
イ) われわれの苦悩は、具体的には精神的、肉体的な負荷である。しかし負荷とはすなわち自己実現の未達成または後退と位置づければ、その本質は分裂である。目標と負荷の受容という背反する事柄を身に帯びていることが、すなわち肉に生きることである。そんな相反する自己に留まることが、すなわち罪である。
ロ) 律法主義者と放縦主義者というキリスト教信仰の陥りやすい誤謬は、まさに両者に分裂する人間がその一方に身を置くために起きる。自己目標の無理な追求(律法主義)も、自己目標の断念(放縦主義)も、肉の目標において元来より武烈させられている状態にあるのである。
ハ) その統一をもたらしたものがキリストである。神を愛し神に従うことが、われわれ自身の分裂のない本来の目標を取り戻すことなのである。

  2.「惨めな人間」と言い得る救い(22-25)
説教『愛を願いたい』のための黙想
イ) われわれは、分裂から救い出された存在である。それは信徒の朝の祈り=「今日の(隣り人との関係での)葛藤が、愛に変えられるように」「今日の(肉体的な)苦しみが信仰の導き手となるように」などに証しされる。われわれは、そのような信仰生活者である時に、神との関係において統一された者(永遠の命に生きる者)となっている。キリストの復活は、この統一の実現である。
ロ) われわれが肉のとりこになっていた(罪に支配されている)時には、われわれは自己実現には至れない存在であった。なぜならわれわれは何者か目指す意志を与えられた尊いものであるが、その目指すものは、目指すものである以上究極的な価値(善、愛、永生)にならざるを得ず、そこまで届き得ないからである。それにもかかわらず自己実現を目指すならば、現実の自己と目指すべき自己とに分裂させられる。かといって、そのために自己実現を諦めるのならば、自己肯定と自己否定とに分裂させられる。
ハ) 断罪と贖罪を同時に実現する神の真理は、この二律背反を超克する。神に従うことが、すなわち目標を目標とすることであり、キリストは十字架によって究極目標を達成した。この自己奉献は、被造物としての人格の完全な統合であるものの、自己奉献であるが故にイエスの自己は失われざるを得なかった。神は、そのキリストを復活させた。
ニ) われわれの内にキリストが住むとは、この統合を神から賜物として与えられていることである。このキリストによって、われわれは初めの祈りを祈ることが出来る。