聖 書 研 究
ローマの信徒への手紙 第5章


      ロシア型十字架

中村栄光教会牧師 北川一明


【目次】

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T.義による希望(1-5)
U.贖いによる和解(6-11)
V.罪の予型(12-14)
W.罪の予型を破棄する最後の人間(15-19)
X.恵みによる永遠の命(20、21)






T.義による希望(1-5)
 A.逐語訳
1 :それで信仰から義とされて平和を持っている、神に対して、われわれの主イエス・キリストを通して。
2 :そして彼を通してわれわれがその内に立つ彼の恵みを信仰に持つことが許され、神の栄光への希望を誇る。
3a:が、それだけでなく、 3b:むしろ圧迫をもまた誇る、 3c:圧迫が忍耐を確立することを知って。
4 :が、忍耐は確かさを、が、確かさは希望を。
5a:が、希望は恥じ入らさない、 5b:それは、神の愛がわれわれのこころの中に注がれたから、われわれに与えられた聖霊を通して。

 B.本文
1 :Sin、B、F、G、P、Ψの「持っている(ind.pres.)」をSin*、A、B*、D、L、33は「持とうではないか(subj.)」。ヘレニズム期には両者に発音の違いはなかったことは、ただ文脈で判断されなければならないばかりでなく、当時手紙を朗読されたキリスト教会の会衆は、それぞれが独自の判断で聴き取ったことになる。
2a:「信仰に(Sin、C、Ψ、33)」をSin、Aは「信仰にあって」、またB、D、F、Gは省く。
3a:Dは再帰代名詞を入れる。 3b:「誇る(ind.pres.)」をBがpart.

 C.語彙
prosagwgh接近。Lk、Acはもっぱら人が人を近くに連れて来ることに用いるが、書簡(Eph2:18; 3:12、1Pt3:18)は「神に近付くこと」。高貴な人物への謁見や至聖所への進入許可であることから、上では「許されている」とした。
qliyi"困窮。本来は物理的な圧迫を示すqlibwより。転義して人または神の圧迫であるため、ただ困難ばかりでなく迫害(1Th3:3)や終末時の刑罰(Rm2:9)にも用いられる。
katergazomai完成する。ここでは「生み出す」の意味で。
upomonh忍耐。特定の状況下に留まり続けることから、本来は日本語の忍耐よりも比較的肯定的に不屈の闘志というニュアンス。それを新約聖書は屈辱に耐える意味で、日本語の忍耐にかえって近付いた。終末待望と結びつきキリストへの希望によって可能となる。
dokimh証拠、証明。試す、選りすぐるの意味のdokimazwより。「練達(口語訳、新共同訳)」では「熟練」の印象をあたえるが、火による精錬のイメージからはむしろ「純化」を思わせる。形容詞dokimo"(確かな、受け入れられた)に-azwを付加して動詞にした。実証と言っても、精錬されて確かな物として受け入れられるのは他に対して証明するのが目的ではなく、信仰が自分自身に確かなものとなる。Rm1:28では神認識と結びつき、信仰なしには有意義な現存在の諸関係が喪失する。1Pt:3-5も将来の希望のみでなく、3のイエス・キリストの復活または3-5全体を受けて語られるものとすれば、神認識によって試練が練達を生むものとなる。
kataiscunw恥じ入らせる。多くは受動態で恥になる。ここでの意味は「希望に裏切られることはない」だとしても、パウロは明らかに2の「希望を誇る」に対応させて、「キリスト者は希望を誇り、希望もキリスト者を恥じ入らせない」である。

 D.釈義
1 :ヘレニズムの平和観が戦争のない状態であることは、5:11の敵対および和解の概念と対比されている当節にも含まれている(ケーゼマンに反対してバルト、Dunn、Barrett)。それでも単に心の平安や外界との調和を言うだけではなく、むしろ神と人とが関係を持つことを神が受容した状態(Dunn)に重きがおかれているのはユダヤ的平和観から言って当然であろう。それは律法遵守によってではなく「主イエス・キリスト」を通して、神が「われわれ」を既に義とした(aor.)ことが支持する。その場合平和が結果としてわれわれの「心の平安や外界との調和」に結びつかないのならば、平和は概念的、抽象的なものともなりかねない。パウロの「信仰の義に基づく平和」に対してユダヤ教は「律法遵守に基づく平和」であり、ケーゼマンをほぼそのまま用いた高橋基敬はラビ的ユダヤ教の「救いの不確かさ」にキリスト教の「救いの充溢」を対比させる。しかしそれ以上に「平和」は次節の「神の栄光への希望を誇る」誇りを得させて恵みの力の中に在らせる故に信仰者の実感と一致するのであろう。この平和が「主イエス・キリストを通して」であることはこれまでの論述の繰り返しである。しかし死者から生者を呼び出す力によって主イエス・キリストが復活してわれわれの前に現われたことを信じる信仰を通して、われわれはバルトの指摘通り我ならぬ我として神との交わり(平和)を得る。
2 :「われわれ」が今たたされている「恵み」とは神との平和に安んじている状態(Barrett)であり、Cranfieldのように特に「平和」と区別して「義とされたこと」とする必要はない。まして「立つ」の語からここに使徒職を読む(バルト)のは緒論上賛成しかねる(Cranfieldおよび第1章1〜7節釈義中の「E.釈義 >>> 1.文脈」参照)。それでも神との平和に安んじている状態は「彼ならぬものとなり、自分の知らぬことを知り、自分のなしえぬことをする」とバルトの通り言い換えることは妥当である。この状態は神の主導による人間の義によって実現した背理である故、信仰によってこの恵みに「謁見を許される(prosagwgh)」。「希望」は神によって保証されている反面、現在は実現し切ってはいないことをも示す。信仰者の「誇り」は、過去の実績ではなく(3:27、4:2)未だ実現していない約束(4:13)である。
3a,b:そこでこの「誇り」は苦難の中でこそ明らかになる背理的性格を持つ点で、信仰と同じである。「希望」から「圧迫(艱難)」に話題が展開するのは、「圧迫」が読者の現実の状況だったこともさることながら、それよりもキリストの苦難に与ることがキリストの勝利に与ることの前提となっているとする信仰による。また超越との接触は、罪ある人間にとって艱難として以外にあり得ない。このことが「誇る」の語によって繋げられているのは、艱難を通して神との接点を持つことがクリスチャンのアイデンティティとなっているからである。艱難の受け止め方の違いで、われわれは自身が信仰者であることを知る。
3c,4:苦難から「精錬」を経て熟成された「希望」は、当然のことながら終末論的であり、キリスト再臨への確かな期待は、苦難の下に留まっている時に錬成される。苦難が忍耐、実証を経て希望へ至ることを、パウロは「われわれは知っ(てしまっ)ている(participle, perfect)」とする。この「知っ(てしまっ)ている」は、「経験によって認識している」という意味ではとらえ切れない。「実証」「精錬」を表わすパウロのキーワードはローマ書(2:18、14:22)からは「わきまえを生み」とも訳し得、「超越との接触は自己世界の絶対化を避けさせる」という意味で受け取る範囲では、経験的認識が可能である。しかし苦難の下に留まる「忍耐」はキリストへの「希望」が「確か」なものであって可能となると点で、ここの論理は循環に陥っており、始めにあるものはどうしても「希望(2)」である。そこで苦難が忍耐と実証を経て再び確かな希望となるためには、おおもとの「希望」が与えられていなければならない。
5 :「恥じ入らさない」が「欺くことがない」と訳すのは、最終的な恥は自我が終末の世界で承認されないことである故に「希望に欺かれて滅びることはない」という意味で妥当である。最初動の希望(2)から種々のこの世の圧迫的な出来事を通して再び希望(4)となったとき、最初動の希望(2)が欺でなかったことを知るのである。前節の問題である最初動の希望が人間の論理では循環せざるを得ないことについて、パウロはそれが聖霊によって心に注がれたと「聖霊」のいわば「強弁」をもって論理的な証明を拒絶する。すなわち、希望は「神の愛が心に注がれている」ことにおいてのみ確かとなる、神の業である。「神の愛」は6-8を見ればBarrett、ケーゼマンの指摘通りわれわれのキリストへの愛であるはずがなく、神からの働きかけであろう。しかしそれが「こころに注がれている」ことから、神の愛がわれわれの性向に影響することまでは否定すべきではない。論理循環を断ち切る最初動のものをわれわれが確証するのは、われわれに注がれてわれわれがそれによって動く愛によらざるを得ないであろう。聖霊によって希望が与えられることをケーゼマンは洗礼と結びつけるが、6-11へ繋がることから考えても神の愛はただキリストの贖罪死によって注がれたと見るべきであろう。十字架だけでなくキリストの復活によってわれわれは神との間に平和を得たはずである(4:24,25、5:1,2)が、6以降は復活さえやや後退しているように見える。

 E.黙想
  1.地域集会のための黙想
イ) 霊とはこころの中心であり、三位一体の神としての聖霊とは、永遠からその霊に働きかける媒介である。霊に研ぎ澄まされるとき、われわれは神のひととして地上を永遠において生き始める。
ロ) より大切なもののために他を捨てて行くことで、われわれは試練に耐えて来た。そして最大の試練である自己の死を克服するのは、そうした中で永遠の聖なる大いなるものと出会うことである(説教『試練に打ち克つ力』)。富の獲得と蓄積によって試練に備えるのとは正反対の方向である。
ハ) 忍耐は、希望があって可能である。何に根ざして自己を把握するかによって忍耐の方向と量は決定される。
ニ) ただし霊的な希望は、献身によって自己が完成される(Mk8:35)という信仰の逆説を含む。そこで信仰の希望は、忍耐によって醸成される趣がある。聖書当時のキリスト者たちは、殉教の可能性の中で、自己投企によって人格を陶冶し、聖なる者に出会う者となって行った。現代においても、教会が富の蓄積によって自己保存を図れば、それは失望に終わる(希望に欺かれる)ことは外部からは明白である。教会が、その唯一の目的を捨てては自身を保つことはできない。
ホ) 苦難における忍耐と練達において自己投企が可能になるのは、永遠性が「愛」という形でわれわれに受肉するからである。

  2.1、2節説教『起キタラ聖日デアツタ/髭ヲソツテ/祈ル』のための黙想
イ) 残念ながら、不信仰なわれわれの関心は必ずしも「義とされること」でも「神との間に平和を得ること」でもない。自己の幸福が最大の関心である。その幸福は客観的な尺度で計測することは出来ず、主観的な受け止め方に大きく影響される。われわれ信仰者はそれを知って神の恵みを数えようとしている信仰に生きる者である。隣人を愛し、自己の人格の向上に努めることを幸いと感じることが出来るのはこの信仰による。人格向上の方向性は形而上的な関心によるからである。
ロ) 何をもって向上とするかはすなわち何を誇るかである。愛と感謝の生活も、信仰による義に関係しない間は自己を誇るものであり、その結果は悪いものではないとしても希望にはつながらない。信仰による善行も最も良くてせいぜい現世的幸福感を得ることで終わっており、それでは将来の不安に脅かされることになる。まして主観的に幸福を受け止めることが出来ていない場合は人生は絶望となる。
ハ) しかしわれわれの信仰は復活のキリストを信じることであり、それはただ精神性の重視ではなく聖なる永遠との出会いと一致であった。将来の不安や絶望は、こうした信仰の欠如である。「希望」という視点から言えば、不信仰者の希望は欲得に由来する単なる願望である。そうした欲望はただ不安と不満を生み、結果として恵みを数えることに逆行して行く。しかしわれわれは、斯様な信浅き者と雖もそれでもなお信仰者であるが故に、時期を与えられてこうした罪を自覚して御前に恥じるのである。信仰者の恥は、己を誇ったことであり、希望を持ち得ないことである。
ニ) 信仰の逆説は、この恥じ入る思いにおいて神の栄光の希望(すなわち神の永遠性、完全性にわれわれ肉の人間が与る希望)を取り戻すことである。われわれは、既に赦されて神との間に平和を得ている。そのことは単に「信じる問題」として自己暗示にかけるようなものでなく、罪に恥じ入って御前に額ずく時にキリストと出会うことで知ることが出来る。
ホ) われわれが信仰によって導き入れられた地点は、この悔い改めの礼拝である。礼拝中の黙祷も聖餐も、悔い改めがなければ力を得ない。しかし己の罪を覚える時、それはキリストの聖性に触れる場所となる。この導き入れられた地点から、今与えられている恵みを数え治した時、恵みを信仰の実りとして豊かに受け取り直すことになる。

  3.3〜5節説教『闇から帰り来るひと、顔が晴れてゐる』のための黙想
イ) 苦難を誇ることは、もちろん非常に困難である。しかしそれがキリスト者にはあり得ないことではないという証しをわれわれは受けている。そのこと自体が既に大きな希望である。自己が神(永遠性)と全き調和にあるときに苦難に感謝することが可能となり、その結果神の愛がわれわれに注がれていることが確信できる。もっとも苦難はただちには感謝や誇りにはならず、忍耐と練達を経なければならない。教会における証による励まし合い(信仰の交わり)は、苦難が確信と感謝、賛美へ変わる過程を作り上げる。それは人格(4KJV:character)を建て上げることでもある。
ロ) 苦難は「我慢する」という意味での忍耐を生むとは限らない。われわれは我慢を嫌い苦しみから逃れようとする。それは当然であり、「忍耐」とは、その語義からみても状況を改善する努力を怠る精神主義ではないことではない。苦難の状況下に存在することである。すなわち、具体的な苦難から逃れられない状態か、またはその特定の苦難から逃避し得た場合には逃避行動の副作用で陥る新たな状態か、いずれにせよ特定の圧迫(qliyi")を原因とした不合理不自然な状態を引き受けざるを得ずにその状態に「在る」ことである。
ハ) 神の栄光に与る希望(2)を持つものは、この苦難に「在る」ことを自覚することができる。それはたとえばヨブのように「神の栄光に与るはずの自分がなぜ苦しまねばならないか」という信仰の叫びを叫ぶことであるかもしれないが、そのような仕方で自己を認識することが「忍耐(upomonh)」であろう。
ニ) 「練達(dokimh)」も苦難を避ける小器用さではない。苦難に対する対応(認識、受容の仕方)でわれわれの人品骨柄(4KJV:character)が決定する。そしてその品性こそ人間が人間として生きる意味であろう。苦難にあって怒り、恨み、妬みを発現させることは当然ではあるが、自己の品性、ひいては存在意義を損なって行く。そうした否定的な態度を克服する品格は、神的聖性との関係においてわれわれの内にも存在し得る。
ホ) 否定的な態度を克服する信仰は、従ってわれわれの心に注がれている愛である。完全な愛は極めて困難であるとしても、苦難の中でわれわれの内に愛がいくらかでもあるのならば、そこに神の到来を発見することができる。苦難の中で隣人との間に神的平和を得た時、即事的な愛が永遠につながって存するものであることを知り、永遠性への希望を改めて確かなものとすることができるのである。

  4.2〜5節こども合同礼拝説教『漬け物桶に塩ふれと母は産んだか』のための黙想(Mt7:7-12との関連で)
イ) 求めれば必ず得られると聖書は約束する(Mt7:7)。聖書の言葉にもかかわらず求めても得られないように思われるため、われわれはこれを信じようとしないことが多い。しかし求めることができないほどの悲惨はなく、それよりは邪悪な欲望であっても求める所があるのがずっと幸いである。これはRm5:2の初動の希望に対応する。
ロ) もっとも、幸いを得るためには表層上は多角的に獲得しなければならない。邪悪な欲望は他を失う不合理な求め方を誘い、最終的には自ら幸いを失うことになる。そこで単に皮相的に求めるだけでなく、統一された適切な目的を探すことが必要になる。全人格における統一的な目標は、人格を創出する自己を超えた力を要する。これらRm5:3の「忍耐と練達」になぞらえられる超越待望は、探し見出すこととノックすること(Mt5:7,8)に対応る。超越は獲得するものでなく、超越の側から開かれる(Mt5:8)必要があるが、聖書はこの開かれることをも約束している。
ハ) 「忍耐と練達」とは、糧が必要な飢える者が糧無しに耐えることではないだろう。糧ならざるものを糧と誤解して求めている己を知る時に、真に求めるべきことが分かる。それは超越との接触に基づく全人格上統一された目標であるため、個々の達成目標ではなく、われわれの「心に注がれる神の愛」すなわち「律法と預言者」の成就としての愛(Mt7:12)であろう。



U.贖いによる和解(6-11)
 A.問題
6 :われわれの希望の根拠が神の愛であることが、前節で初めて示された。キリストの贖罪が4:25で示され、それを神の愛と言い直した箇所であるため、その死は「不信心な者のため」のものである。このキリストの贖罪を福音として聞くための前提は、この書簡の文脈で言えば無から有を生じせしめる超越的聖性への接近を(4:17)名宛人たちが喜んでいなければならない。神の啓示を無視して(1:29,20)諸々の悪徳に陥っている(1:29以下)異邦人の間にあって、ローマ教会の信徒たちは自身の罪(3:10以下、3:23)にもかかわらず神的真理を受け継ぐ者とされているのである(4:16)。
7,8:神の愛を、パウロは罪人の代理死としての十字架死をもって示す。カル・ヴァホマとして聖人のためならともかく義人のために死ぬ者も少ないのに、まして罪人のためにキリストが死なれたことに愛を見ている。われわれにとっては、7節の類比は奇異である。すなわち、現代の完全に個人主義化した生命観においては、聖人や義人のための死でさえも、それが可能性としてあり得るのならば、類比として不適切に感じられる。
9,10:それでも7,8のカル・ヴァホマが、国家や理想のために命を捨てることがあり得る時代には有益であったのに対し、9,10のそれは一層分かりにくい。パウロの議論では、神の怒りから救われることは、キリストの血によって義とされたことよりも小さなことであり、また御子の命によって救われたことは、神と和解させたいただいたことよりも小さなこととなる。個人的な関心が神との和解以上に切実であるわれわれには、この議論の進め方は理解しづらい。それでも、神との和解がある以上、個人の救済などは当然であるとする議論は、抽象的には必然性がある。
11 :しかしパウロはこれを抽象化した思想として捉えているのではなく、誇りであり喜びであるものとして捉えている。信仰によって義とされ神との間に和解を得た、ただその結果を喜ぶことは、神の不可視性からして無理である。キリストを通してそれを得たのが信仰の喜びとなったのであろう。

 B.逐語訳
6 :なぜなら、さらにキリストは、あなたがたの未だ弱い間、ちょうどその時に不信心者のために死んだ。
7a:なぜなら義者のために死ぬ者はほとんどない、 7b:なぜなら善者のために敢えて死ぬ者はあり得る。
8a:が、神はあなたがたに対して彼自身の愛を示している、 8b:わたしたちが未だ罪人であるのにキリストがわたしたちのために死んだ。
9 :だから義とされた以上に、今や彼の血によって彼の怒りから救われるだろう。
10a:もしも敵が神とその御子の死によって仲間にされたということは、 10b:それ以上に仲間になった者は彼の命にあって救われるだろう。
11a:が、それだけでなく、 11b:むしろまた神にあっての誇り、わたしたちの主イエス・キリストを通して今や仲間に加えられたことを通して。

 C.本文批評
6 :「なぜなら」に代わってBは「まさに」。
8a:Bは「神は」を省くので「イエス・キリストは」と取るのが自然になる。「彼自身」の語が主語が「イエス・キリスト」である可能性を強める反面、十字架が過去の事実(apeqanen:aorist)であるにもかかわらず愛を今も示している(sunisthsin:present)ことは、主語「神」があった可能性を示唆する。
9 :D他西方写本に「だから」を省いて10bと文体を一致させるものがある。
11a:D他西方写本が「それだけでなく」。 11b:「誇り(participle)」を「誇る(indicative active present)」にするもの(L)がある。Bは「主イエスを通して」。

 D.釈義
6 :「なぜなら」と前節を引き継いでキリストの犠牲が希望の根拠であると示す。受難の時機について、単に弱かった当時とする者(ケーゼマン、アルトハウス)もあるが、そうだとしても十字架の事件を直接には経験していないローマの信徒を含む「わたしたち」の弱かった時であるならば、内容的には終末論的好機(Barrett、Dunn)としての神の指定時(新共同訳、Cranfield)である。キリスト贖罪後にキリストを信じていても、人間の自覚においては人は相変わらず弱い(Rm8:26、cf.2Co12:10)。しかしこれを神の側から言い表わせば、その弱さとは不信心(6)または罪(8b)であり神に敵対する(10a)ものである。こうした価値の低さというよりは反価値である人間のためにキリストが最終の決断をしたことが、神と和解している証拠であり、すなわち神の愛が注がれて価値に向かって希望が欺かれないことである。
7 :代理死について、「善者のため」→「義者のため」、さらに次節で→「罪人のため」の順で可能性が減少するカル・ヴァホマは、われわれには馴染みにくい。7a、7b「義者」と「善者」の比較では、「善」を「聖」ではなく一般的な「善」ととる限り、「義」と比較して宗教的には「義」がより代理死に値する上位の価値のように思われる。それにもかかわらずパウロは「義人」のために死ぬ者はほとんどなく、「善人」のために死ぬ者はわずかにあり得るとしている。この困難は、迫害に遭った初代教会の実生活から説明し得る(ケーゼマン参照)。すなわち、パウロが本来比較したかったのは「義人のための代理死(7a)」と「罪人のための代理死(8b)」であり、義人のための代理死であれば可能性としては容認しても構わないが、人間的可能性としてはあり得ない罪人のための死をキリストが死んでくださったということである。しかし初代教会は、代理死を信徒が他の信徒のために行なわざるを得ない現実の中にあった。その際、信徒は他の「義人」のために死んだのではない。他の教会員のために死んだ事実に対して、パウロは人間を「義人」と断定できないために「義人のために死んだ」とは言えない。反面、人間は「全て罪人(3:10)」であるが、教会内の代理死は、そうした罪人の「罪人性のため」の代理死ではないので、「善人のため」と言わざるを得なかった。こうした追加と妥協によって、論旨は曖昧になり、キリストの代理死がいっけん相対化されてその価値が不当に傷付けられる。その反面、教会に現存する代理死が、神の「わたしたちに対する愛」を類比的に想起させることと、教会内の代理死がその神の愛に基礎付けられていることを理解させるためには役立っている。
8 :6節「未だ弱い間」「不信心な者」が「未だ罪人である間」と言い換えられることで、キリストの死が贖罪死であることが、6節に付け加えられて示されている。このことが前節の修辞的技法であり得ない奇跡と強調され、神の愛の証示であり、希望に欺かれない(5)根拠となる。キリストの死が自分のためである根拠は、論理上はどこにもない。前節のわれわれには不要不適切とも思える類比も、近親者が教会のために迫害に遭っていること、それが自分のためであるのを実感していることが、キリストの死が「わたしのため」であることを推量させるのに役立ったのかもしれない。ただし、その類比は、同時に人間の代理死の限界を知らせるものでもある。神の愛は、人間の愛において不完全に証しされる。
9,10:10節の御子の死と御子の命が修辞的な対応を示しており、御子の愛による義認、恵みの状態、希望が循環している1-5をここで別言して繰り返す。すなわち、6-11では贖罪死、義認、和解を齎す愛を循環させている。また9,10節を対比してみると、「神の怒りからの救い」から「キリストの命にあっての救い」へと発展している。このことから、9,10を義認から救済へ、和解から救済へと救済信仰に段階があるように受け取ることは不適切と思われる。義認、和解、救済は同一内容の三通りの側面に過ぎず、それが修辞的に強調されているものである。「pollw mallon(より以上に)」が強調するのは救われたことが義認や和解の上位にあることではなく、「彼の血(9)」や「彼の命(10b)」によって義認、和解、救済がなされたということであろう。キリストの血(9)は、キリストの死(10a)ばかりでなく命(10b)をも意味し、それらがわれわれを救済した。論述の背景に迫害の困難をある程度大きな要素と見るのならば、迫害に苦しむ者の救済が、神による義認や神との和解と実質的に同義であるとする主張が、ここにあるとすることが出来る。また「敵対者の義認」という超自然的な愛が示されている。地上の教会の内外の困難にもかかわらず、キリストの死によって集められた群れには、キリストの命によって救済へと方向付けられるという大転換が既に起こっている。
11 :5:1-11まで、「誇り」について述べられて来た。神を誇りとすることはユダヤ教徒と変わらない(2:17)が、律法によって誇ることは誤りとされていた(3:27)。それに対してキリストの贖罪死によって和解を通して神への信仰の内にあることがキリスト者の誇りであると結論付けられる。もっとも、内容に新奇なものはない。神との間で平和を得ている故に希望があって苦難を克服し得ること(1-4)を、キリストの贖罪死(6-9)によって根拠付けたこの段落(1-10)を要約したに過ぎない。しかしそのことによってキリスト者の誇りが「キリストを通して」であることを明瞭にするリタージカルな頌栄となっている。かつての誇りは律法を守ることが出来ない矛盾が解決されない(2:25)。しかし今や、キリストを通してそのための和解がなされた故にキリストを通して神を誇る。この点がキリスト教独自のこととなった。

 E.黙想
  1.説教『人をそしる心をすて豆の皮むく』のための黙想
イ) ひとの弱さとは必ずしも臆病、卑屈、消極性とは限らず、攻撃性や諦念、偽善などとしても現われ得る。こうした弱さは自己防衛であり、防禦を要するのは自己確立する根拠が不明確なる故である。しかしその防衛行動は逃避である故に自己確立に逆行する。すなわち、ひとは希望を失って弱まるのでなく、誤った希望を抱いて弱まり、その結果希望を失うのである。
ロ) キリスト教は神の愛の先行性を説く。この神に愛されたアイデンティティに留まる限りひとの弱さは既に過去のものであり、希望を失うことはない。
ハ) しかしながら、入信後においてもひとは弱さに帰る。宗教的行為にアイデンティティを求めた時、信仰は排他的防禦行動となって臆病、卑屈、攻撃、諦観、偽善に陥る。その時は、キリスト者でありながらキリストが共にあることを忘れている(二人の信徒の譬え)。
ニ) キリストの贖罪は、こうしたひとの弱さのただ中で成就した。われわれのアイデンティティはキリスト者であることでなく、神に愛されていることである。キリストを傍に意識する時、われわれは「弱かったころ」の自分と異なり確かな希望を与えられる。

  2.説教『魂祭にも帰らない/また泣く』のための黙想
イ) キリストによる贖罪死を信じた時、知るべき全てのものが知られることになる。時間的、空間的な隔壁を超えて復活のキリストと出会うことは、贖罪死を信じて受容することとほとんど同時に起こっている信仰の出来事であろう。
ロ) キリスト者に限らず、ひとは罪を犯すことにおいて何らかの聖性(の破壊)を感じ、その赦しを社会に対してでなく超越に対して願っている。諸宗教の犠牲がその代償行為であるが、それは旧約信仰においてさえ不十分であった。超越に対する罪は、超越によってしか赦されない。そこで人間に出来ることは、たとえば人身供儀などもっと大きな罪を犯すことによって聖性(の破壊)と触れ合うことで、赦されていることにする自己欺瞞しかなかった。
ハ) しかし人間の代理は贖罪にはなり得ない。死が各個のものであるため、他者のために死のうとしても、死んだ当人はその他者をも失うことになり、代理になり得ない。残る者にとっても、代理は単に法的な刑罰の赦免を得るだけで、聖性に対する罪は解決しないばかりか、問題が大きくなるだけである。刑罰を逃れながら罪を感じている者は、かえって悔悟や反省を促される。人間の代理死に効用があるとしたら、ただ過去が清算されたことにして人生をやりなおす契機としての意味しかない。われわれ人間においては、どんな代理死も「罪人のため」になり得ないのである。
ニ) しかし、そのことが裁き主としての神の聖性をかえって明らかにする。神の裁きとは、いかなる代償をもってしても贖い得ない聖である。
ホ) それにもかかわらず、われわれは赦されている。そのことは、「罪人のため」になり得ない代理死を隣人のためになす、または為し得ずに苦しむ愛がどこから生起したかを尋ねることによって信じられる。献身のあるところに救いがある。

  3.7〜10節説教『ネロの業火バーベキューの炭に燃ゆ』のための黙想
イ) 「神の怒りから救われている(9)」「神と和解させていただいた(10)」とはユダヤ教的「平安」すなわち神と共在する状態を言う(1)。しかし不可視なる聖性との接触は、可視的な隣人関係を媒介とする。それ故、キリスト教の信仰は隣人愛と直接に関わるものである。神の怒りから救われて神と和解させていただいている信仰者は、隣人関係の中で、「気分」をも「理屈」をも含みつつそれを超える「平安」をもっており、それがすなわち「御子の命によって救われている(10)今の恵みに信仰によって導き入れられた(2)」状態である。
ロ) 信仰の平安がないとは、神の怒りの下にある状態である。この不可視なる神の怒りも、われわれは人間関係の中で知る。ひとの怒りとは、罪の故のものである。パウロは義憤から、キリスト教徒を愛さず迫害した。その時パウロには、平安がなかったばかりでなく、世俗の名誉をもっていても、不幸を生きていた。神の怒りの下にあるとは、他人の怒りに接するのでなく、自分が怒りに支配されている状態である。
ハ) パウロが回心して迫害される立場になった後もパウロは怒ることは多かった。しかし怒りに支配されてはいなかった。キリスト者を迫害する中で、怒りに尊い神の似像性を失っていたのに、そんな罪人と神が先行して和解していた。迫害の極みで、かえってそれを知ったからである。

  4.7〜10節説教『死なうかと囁かれしは蛍の夜(鈴木真砂女)』のための黙想
イ) 人間関係において、われわれが平安を得ているとは、究極に於いては互いに相手のために死ぬことのできる愛に方向付けられているということであろう。愛とはそれに向かって自己を統一する相手を持つことである。その最終の形態は、相手のために死ぬことに象徴される。
ロ) われわれにはその愛を全うすることが出来ない。他者のために死ぬことが、自分を成り立たせないから当然のようにも見える。しかし死ぬだけの価値を持たない者は、生きる価値をも持たない。われわれの命の価値は、そんな二律背反の中にある。
ハ) そこで他者のために献身して死ぬことの出来ない現実に、われわれは死ねないままに生きる意味をも失うのである。具体的には、献身の愛を持たない者は、「愛」を信じることができない。せいぜい人間の「気分」や「意志」としてしか信じない。そんな人間関係に平安があるはずがない。その不安を自らの罪と覚えた時、われわれは罪を通して神を知る。
ニ) われわれが未だ罪の状態にあった時に、キリストがわれわれのために死んだというのがキリスト教会の福音である。死ぬことの出来る意味を有していることが生の意味であるように、自己のために他者が死ぬ時、われわれはその他者の命を生きるという意味を持つ。キリストの死は、神の子の贖罪であるが故に、キリストに死なれたわれわれの意味は相対的、時間的なものではなく絶対的なものとなっている。
ホ) 信仰の平安とは、神が共にある平安である。それは、このキリストの献身に基礎付けられてわれわれが献身に向かわされている平安である。われわれは、命を捨てるだけの価値を持っていないが、持ちつつあるが故に生きる意味を持ちつつあるのである。キリストへの信仰としての「永遠の命」は、「それを確信しているから死ねる」のではなくて、「献身して死ぬこと(に方向付けられてその方向へ歩み出すこと)によって永遠の命を確信して行く」のである。

  5.説教11節『ネックレス/嬉しく照れくさく』のための黙想
イ) われわれは何事かを誇らずには自己の生を意味づけられない。誇りとは、自己に関連する何事かを特に取り上げて、それを譽れとすることであろう。世の全ての誇りが誤解に基づいて価値のないものを誇っているとしても、理性存在固有の誇り自体が悪いものではない。誇りとは何事かに自己の意味を集中させることだからである。
ロ) 一般に誇りとするのは能力や繁栄である。しかし前者は何ものかの手段であり、後者は何事かの結果である。本来自己の中心となるべき事柄は別にあるにもかかわらず、誤解のままでそれらを誇ることは誤りである。律法を通して神を誇ることはその過ちに陥っているのである。また、クリスチャンであることを誇ることも、世にある以上、神でなく自らを誇ろうとする不信仰である面は拭えない。
ハ) 中心になるべき事柄を省察すると、それは自己そのものに備わったものでもなければ、自己の外部から得たものでもなく、自己が関係した関係の取り方である。すなわち、自己が何事かに対してどうかかわるかが誇りとも恥ともなり得る中心事項であろう。しかし「関わり方」も、自己の能力としてではなく、今の自分がどう作り上げられているかということについてである。したがって、誇りを持たないとは、今の自分を意味付ける中心を持たないことである。また恥とは、今の自分を意味づけるべき中心に対して思い通りになっていないということである。
ニ) われわれがキリストによって神を誇ることの中には、誤解に基づく不信仰である面が必ずあるだろう。しかしそれと同時に、自己をキリスト教信仰によって意味づけようと志すものでもあり得る(cf.Mk9:39)。律法にあってではなく、キリストにあって神を誇るようになった者は、「赦し」によって自分を意味づける者である。



V.罪の予型(12-14)
 A.逐語訳
12a:これによって、ちょうど一人の人間を通して罪が世界の中に入って来た、また罪を通して死が、 12b:また同様に全ての人間に対して死が及んだ、 12c:全ての罪の故。
13a:なぜなら律法の前に罪は世に存在した、 13b:が、罪は算定されない、律法がないならば。
14 :しかしながら死は支配した、アダムからモーセの間、罪をなさなかったアダムの不従順のようにではない者をもまた、彼は来るべき者の例だからである。

 B.本文批評
12b:西方写本は「死が」を省略するため、12bは12aをただ強調再確認することになっている。これに対してアレクサンドリア型は人間の死の原因を示そうとするものになっており、12cからは後者が妥当。
13b:「算定されない(pres.)」をAはimperfect。
14 :「例だからである(epi tw omoiwmati)」をBはen tw omoiwmati。オリゲネスが「(アダムの不従順の様にではない)罪なる者をも」にする。

 C.釈義
文脈:12の「これによって」が1-11(または10, 11)を受けている(ケーゼマン、Cranfield)のであれば、キリストの贖罪によって神と和解したことから12-21全体が妥当することを言っていることになり理解しにくい。緩やかな接続(Barrett)で、むしろこれまでの議論全般を受けている(Dunn)とした方が意味は取りやすいがパウロの用語法には他の例をみない困難がある(cf. 2Co4:1)。いずれにせよ10,11の結論は15以下に続き、12-14は3:21に対する1:18-3:20に相当する恵みを知らない人間の現実である。12の「これによって」に続く本来の内容は、アルトハウスの(論証が中断する理由はともかくとしても)18,19とするのが妥当であろう。
12 :パウロは全ての肉なるヒトを支配する死の現実について、アダムの背信にその典型を見る。死が死としてわれわれの脅威となるのは、罪の故である。アダムに見られるものは、神に逆らうことによって発見する自己である。それは死によって滅ぶものとしての自己であるが、堕罪以来、自己とはそのような神に対立して別個に存在するものとなった。したがって「遺伝罪」は問題にならず、個人の罪に責任があることは12cにも支持される。神との相異を知ることによって自己たり得る人間は、同じ神との不一致によって死ななければならない。これは当人の不信仰の罪であり、その責任は専ら当人にある。それでも、それ以外の仕方でわれわれが自己となることは、失楽園以来あり得なくなった。その意味でのみ、アダムの罪はわれわれに影響している。アダムを典型として見た時、われわれは自らの死を理解し易くなる。すなわち、アダムの不従順によって罪が世に死として現われた。そこでわれわれの不従順もアダムと全く同様に罪として算定されるため、われわれに死が及んでいるのは当然のことである。
13 :律法以前には罪が「算定されなかった」の語から、モーセまでは神への背反が「報いを受ける必要がなかった(天上の命の書に滅びを記入されることはなかった)」ととるのはパウロの文脈意図にそぐわない。モーセ以前にも死は厳然とひとを支配していた(14)のであり、ただ律法が無いゆえに罪という概念を適用する意味がなかった。律法はひとに何をなすべきかの弁えを与える(2:18)とともに罪の自覚を生じせしめる(3:20)。死の支配に脅かされる人間を描いていることと併せて、ここの「算定」とは神によって数え上げられることが否定されるものではないものの(4:15)、むしろ罪を犯す者の側の自覚に主張の要点が移っているように思える。
14 :死が「支配」として登場する。このような死理解は他文書には少ない。ヨハネ神学でキリストを信じる者が死から命へ移っている(Jn5:24)とするのがこれに近い。「死の苦しみから解放される(Ac2:24)」や「死の恐怖のために奴隷状態となっている(Hb2:15)」などは死の支配力を前提としているものの、一般的な死の恐怖ともとり得、支配としての死をここほどは明確に語っていない。パウロ自身では、この後続けて述べられるが(5:17)、その本質は「罪の支配」であって死はその具体的手段のように説明され(5:21)、「義による恵みの支配(同)」と対比される。こうした死理解はパウロ神学の前提になっているであろうが、こうした言俵形式は当該箇所独自で、ローマ書次章の「洗礼に於いてキリストの死に与る(6:3)」でも直接は言われていないし、キリストアダム論として並行する1Co15にもない。「アダムからモーセの間に裁きとしての死があった」とすることによって、イスラエル民族の罪と死の問題であることを暗示する。すなわち、律法を通して自己を神の民して誇る(2:17)イスラエル民族でさえ、根本的に罪と死に支配され続けて来た。「罪を犯さなかった」については、paraptwmauperbainwの語を用いることもせず、さらには「不従順でなかった…が罪人である…者たち(オリゲネス)」ともせず、敢えてamartanwとしていることは、「全ての者が罪人である(Rm3:9)」とする罪理解と字義的には対立し、ここの意味をとりにくくしている。その反面、顕在的な罪があろうがなかろうが、アダムを予型として考えれば決定的に罪に支配されていることを強調される効果がある。「例(予型)」としてのアダムについて、「来たるべき者(sing.)」とはただキリストのみを指すのであろうが、直接キリストと言わない。アダムがキリストの予型であるとは、一人のひとの責任で他の者が断罪されたり救済されたりする代理性のことではない。それとは異なる(ouc w")ことが15、16で主張されている。罪のために、十字架によってキリスト自身が滅ぼされたことが、アダムに予見される罪の悲惨でありその意味での予型である。したがって、アダムはわれわれ罪に支配されたひとりひとりをも予示するものである。キリストは肉においてはアダムのように死の支配下にあり死に渡された。われわれ信仰者はその死にも与らざるを得ないのである(6:4)。ここで示された「自然の命の体」としてのアダム予型を克服する形で、5:15以下で「次いで霊の体がある(1Co15:46)」キリストが示される(cf. 1Co15:45ff特に15:49)。

 D.黙想
  1.説教12節『初めに死あらず/命ありき(死の知恵)』のための黙想
イ) 死を見据えることのできる人生が充実した尊いものであることを、われわれは見聞きして知っている。そうした生き方の始まりは、多くは死から逆算して残りの命を尊く生きようとするものである。ただ、そのままでは死の脅威は乗り越えられず、尊い命のための努力をし続ける動機を失う。日々の苦闘の中で、死を超えた何ものかを感じ始めた者のみが、尊い努力をし続けられるのであろう。
ロ) キリスト教信仰は、凡夫たるわれわれをもそうした生き方に導くものである。永世とは、ただ不老不死ではない。死の支配のもとにあって朽ちて行くはずの自己が、キリストの支配の下に変えられることで肉体的な死を超えた命を得、肉体的な残りの日数をもそうした命の支配の中で生きることである。キリスト教会は、そうしたキリストの命に触れる場所である。このキリストの命を知っているから、聖書は死をはっきりと見据えさせる。
ハ) 創造物語りにおけるアダムが、死の入り込んできた初めである。アダムは神と自己とを分別することで自己を確認した人間の初めである(3:5,7)。自己の自覚を悪とみなすならば神義論の問題であるが、自己として生きる者になるためにはまず死ぬ者になる必要があったとも言える(Gn3:17)。子が親を捨てることで自己を得たが、背くことなしに自己たることは本来は可能であったに違いない。しかし背くことで自己と死を手に入れた子を親は待っていてくださることは、放蕩息子の喩えによって神とひととの関係に類比される。
ニ) 死の知恵が入り込んだ後にわれわれ自身でそれ(罪)を取り除けようとすれば、イスカリオテのユダのように生を放棄するしかない。その意味で、罪を犯さず義となるために律法に頼るのは、死に支配されたままの状態で義となろうとする虚しい努力である。しかしキリストが死者の中から復活したとは、この死の支配がキリストによって終わっていることを示す。われわれに必要なものは、罪を抱えたままであっても、キリストにあって神のもとに立ち返ることである。
ホ) キリストにあって神のもとに立ち返るには、キリストを信じることが必要である。キリストを信じるとは、具体的にはキリストの歩みを知り、霊を受けていることを信じて祈りと愛の業とに向かって日々の生活を整えることであろう。苦しむ者が希望を見出す(Rm5:3-5)のは、われわれが肉の知恵によって死を直視し、それに苦しみ悩む時、われわれの祈りと献身は深まらざるを得ない。その結果としてわれわれはわれわれを損なう世の諸力から、そして最終的には死からも自由にされて行くのである。

  2.説教13節『壁を打つたのを見られていた』のための黙想
イ) 信仰の世界には報いがあり、信仰者はみな報いを恐れている。「キリストの贖罪の故に天国に行ける」と発想するのも、罪の報いを信じる故に贖罪をも信じるのである。ただし一般的に報いとして空想されている世俗的な損害は、信仰上の「報い」ではなく世俗的な悪行の報いに過ぎない。信仰上は、永遠の命を確信して生きることが出来るか/死に絶望するかという報いを受ける。キリスト教信仰は死に際して顕著に証しをたてる。
ロ) 全能の神が生きて在るとは、我々のあらゆる行動全てが神の下にあるのであり、「報い」という一面から言えば、いわば神の監視下にあると考えられる。律法以前に罪が数え上げられなかったことは、この報いが不明確で理解しがたい状態だったことである。今も神の御旨は明瞭に言語化することが困難である故多くの者が理解せず、律法に字義的には違反していない者にとっては相変わらず死の支配は理不尽に思えるであろう。それと比して報いを知るわれわれは幸いである。
ハ) 神の監視が不完全で抜け道のあるのならば、我々は神との間で探り合い、騙し合いをすることになり、むしろ窮屈で不自由である。神の監視は完全である故、虚飾は無駄であり、不要となる。そして神の聖性を信じるならば、われわれは「報い」としての幸いは何ら要求し得ないことを知る。それにもかかわらず神はキリストの故にキリストに対する報いをわれわれに与えるとするのがわれわれの信仰である。
ニ) 罪によってわれわれは死ぬことになった。しかしキリストによってわれわれは霊の永遠の命を生きることになった。われわれの罪は、一方では必ず裁かれる。しかし他方霊においては赦される。この奇跡を信じる者は、神からの(監視を含む)働きかけに対して無関心では有り得ず、それを良く知ろうとする。そうした意味で神を求めることも「信仰」であり、応報刑的因果律はこうした信仰の有無においても活きている。すなわち、この神の働きかけに無関心であるのならば、死に支配された所からの贖いを知らず、絶望のうちに死んで行くことになる。
ホ) 神の働きかけに関心を持てば、神に喜ばれる生活を志すことは当然である。そのためには罪を減らす努力と義を為す努力と双方が考えられるが、しかしそれらは単なる道徳的な排悪や善行ではない。いずれにあっても心の底を見抜かれている以上、その努力は表面的な行為を取り繕うことではあり得ないからである。いずれもが内面の最奥における根本善へと意志することしか正当な努力目標はあり得ない。しかしそれだけに我々は自由なのである。一切の弁解や誤魔化しとしての虚飾は必要なく、ただ正直に愛を積もうとすれば良いだけだからである。そして実際に無私に他を愛することが出来た時、霊的永生を感じる力は強まる。

  3.説教13節『どうしようもないわたしが歩いてゐる(種田山頭火)』のための黙想(Jn5:2-14との関連で)
イ) 信仰の喜びが、キリストにあって自己が新しく変えられる喜びであるならば、それは悔い改めの喜びと言える。それ故、律法以前に罪が数え上げられなかったことは悔い改める必要が理解されないことでもあるため、ひとにとってはかえって不幸な状態であった。ベトザタの病人は、病から「良くなる」ことをすら望めなくなっていた(Jn5:7)。罪がこの病人を支配しているため、死に定められて過ごしているにもかかわらず、そこから抜け出す意欲さえ失われている。
ロ) この罪を認めない時、「もっと悪いことが起こるかもしれない(Jn5:14)」にもかかわらず、(個々にはともかく少なくとも民族としての)イスラエルはそれを認めることが出来なかった。人間の悲惨はこの傲慢にある。改めるべき罪を知らない者に、信仰の喜びはない。そこで傲慢と悲惨は、律法を持たないことよりも、律法に字義的には違反していないことにおいて顕著に現われる。回心の拒絶は、死がわれわれを決定的に支配している現われである。
ハ) アダムがキリストの予型であるとは、キリストが罪に滅びるアダムの痛みを共有し得ることであり、それがすなわち神が肉なる人となったということである。キリストが苦しんだのは、具体的には裏切りと処刑にであるが、その本質は死の支配である。この死の支配が打ち破られなければならないため、キリストは、世に来た。キリストが世に来たのは、受肉という意味においては、ベトザタの病人を癒やすためというよりも、ベトザタの病人の罪を身に受けるためであった。
ニ) 神意に従って自己に絶望することなく自己の死を受容したことが、死の支配からの脱却の初めであろう。死の克服は、われわれにとっては復活と顕現によって完成する(完成していることがわかる)。われわれが自己に絶望することなく自己の死を受容することが出来ないのは、われわれ自身の力で復活することが出来ないからである。そこで救いにどうしても必要なことは、われわれの人間性に与ったキリストの神性に、われわれが信仰によって与ることである。
ホ) キリストが罪人の苦しみを苦しまれた以上、われわれは傲慢に留まる必要はなく、回心することが可能である。キリストが到来した以上、抱えている困難にかかわらず、信仰によって喜びを生きることができる。



W.罪の予型を破棄する最後の人間(15-19)
 A.逐語訳
15a:むしろ悪行のようではない、 15b:賜物のそれは、 15c:なぜなら、もしひとりの悪行で多くが死んだならば、 15d:更に多く、神の恵みとイエス・キリストの恵みにあっての賜物は多くに注がれた。
16a:そして恵みはひとりの罪を犯すことのようではない、 16b:なぜなら裁きはひとつから断罪へ、 16c:他方恵みは多くの悪行から義へ。
17a:なぜなら、もしひとりの悪行に死がひとりを通して支配したなら、 17b:更に多く、恵みと賜物と義の授受の横溢者たちはひとりのイエス・キリストを通して命のうちに支配するであろう。
18a:それだから、ひとりの悪行を通して全ての人間に断罪のように、 18b:そのようにまたひとりの義を通して全ての人間に命の義を。
19a:なぜなら、ちょうどひとりの不従順を通して多くの人間たちが罪人とされたように、 19b:そのようにひとりの従順を通して多くが義とされるであろう。

 B.本文批評と語彙
15 :西方に「更に多く、神の恵みとイエス・キリストの恵みの賜物は」がある。
16a:「罪を犯すこと(participle aorist)」に対して西方写本(D、F、G)は「罪(noun)」。 16c:「義へ」に代わってDは「命の義へ」。
17b:Bは「賜物と」を、Cは「義の」を省く。Bは「キリスト・イエス」。
18a、19b::Sin*が18aを「ひとりの人間の悪行」、西方写本が19bを「ひとりの人間の従順」。

 C.釈義
15 :アダムによる罪と死とキリストによる義と命を比較し、その相異点が強調される。それにもかかわらず類似点が示された印象が残るのは、10にあったei gar……pollw mallon構文、また19wsper gar……outw" kai構文が用いられていることによる。類似点は一人の者が原因となって結果が凡てに及ぶこと、すなわちアダムまたはキリストによって滅びまたは恵みが普遍化するというである。しかし12-14の「原罪理解」が十分論証的に説得している訳ではなくむしろ宣言的であることから、12-14をもって15以下を類推して理解することはできない。むしろ逆に、キリストひとりの功績で凡てに義が及んだことが5:8-11で既に説得されている読者対象に、12-14でアダムの旧約伝承を類比させて説得したととることが出来る。「ひとりのひと」はRm以外ではAc17:26でアテネの民衆も含めた全てのひとが造られたのがアダムからであることをパウロの説教が論証している。ひとの今の生き方は、アダムを始源としながらも罪の結果として必然である。こうした罪の由来に対し、神の恵みは必然ではなく、そのためどうしても「賜物」であらざるを得ない。しかし賜物であるだけに、救いが、十分な根拠のある滅びをも凌駕する可能性となる。パウロは罪の増し加わった所に恵みが溢れた(20)という経験を通して、一人のひとを通した恵みは断罪に勝ることを信じて主張している。
16 :この類似と相異を16では裁判のアナロジーで論証する。神の恵みを有罪者に対する恩赦に喩え、恩赦の力が断罪よりも強力であるとするのがパウロの主張である。この主張は、ユダヤ人が自己の義で救済されているという前提に立っては理解できないし、また現代人が神の救済が真理かどうか根拠を問おうとしても根拠にはなり得ない。パウロは、全ての人間が断罪されるべき罪人であること、それにもかかわらずキリストによって神との間に和解を得ていることの両者を既に前提としている。その両前提から出発して、神の恩赦の力が絶大であることを讃美している。
17 :三たびei gar……pollw mallonが用いられて15、16の主張が繰り返される。しかし前述の通り罪人の義認という主題については既に繰り返し述べてきたことが15、16で確認されたに過ぎない。それに対し、ここでは「支配」のモチーフが新たに展開される。21では支配する対象が人間であるのに対し、当節後半は支配する主体が人間である。「死に支配される」生き方に対応するものは、「恵みに支配される」ではなく「命にあって支配する」ことである。言い換えれば、信仰か否かは、何によって支配されるかではな支配を受けるか支配するかの対照とされている。同じ人間が、罪があるかどうかという側面では死罪に定められながら、恵みの賜物を受けているという側面では死を克服する者にされていた。われわれがこの二者のうちの後の側面に生きるということは、命のうちに支配する者として生きるということである。支配する対象は明示されていない。信仰者の支配する対象が仮に「世」など自己自身以外のものであるとしても(Rm4:13)、全てを支配するものは本来キリストでありその時期は終末であるから(1Co15:24f)、キリストの支配に与るという仕方以外には考えられない。それよりも義と平和と喜びの力としての神の支配(Rm14:17; 1Co4:20)を我々が受け継ぐ(1Co6:9f; Ga5:21)のであるから、支配する対象は、おそらく第一に自己自身であろう(cf. 6:7, 8)。命によって自己の生を支配する新しい生き方は、パウロにとっては恵みと賜物と義を受け取ってそれが「横溢している」と表現せざるを得ない豊かさに感じられている。
18 :ひとりのアダムによって死が齎され、ひとりのキリストによって恵みが齎されたということが、15、16,17に続き、三たび繰り返しされる。ここではキリストによって齎された恵みを新たに「義とされて命を得ること」と詳しく特定している。「ひとりの悪行(義)」か「ひとつの悪行(義)」かは文法上は特定できない。
19 :18に続いて四たび同じテーマが言い換えられる。ここでは悪行(paraptwma)と言われていたアダムの罪が不従順(parakoh)に言い換えられる。また断罪が過去(aorist)、義認が未来(future)時制で語られる。断罪と救いの、ひとりから多くへの普遍化が繰り返し語られたことをもって、ここで万人救済を想定している(ケーゼマン)とは考えにくいが、個人の信仰行為の結果を超えた救いの賜物性が印象付けられていることも確かである。パウロにとって信仰は本質的に従うことであり、2Co10:5,6によれば神に逆らって立つ高慢や思惑を圧倒してキリストに従わせるものである。義認もアダムの不従順に対比されたキリストの従順から出発する(G.Schneider)が、キリストの従順はわれわれの「模範」であるよりもわれわれに「賜物」として働く。従順の強調は、表面的には信徒が何ものかを「支配する」こと(17)と矛盾するので、17の支配はキリストと共にあっての世界支配しかありえない。

 D.黙想
  1.説教『私ハ大切ナ人間デス』のための黙想
イ) われわれは目標を自己自身に対して設定するが、その自己目標に自分自身が合致していない時に自我の苦しみとなる。教会も含めた世俗の諸団体は、そうした目標を相対的に変更させることが出来る。悔しさや惨めさなどの過去の傷が、ひとの自己受容を妨げており、自己の理想像を変更させることで、そうした自我の不安定な状態は克服し得る。
ロ) 目標の相対的な変更は、ひとの自助能力を引き出し、当面の苦しみを取り除かせる。そのための世俗の諸プログラムは、福音を聞き得る状態にするために十分有益である。しかしそれだけで終わっては絶望を先送りするに過ぎない。自己が設定した目標は、それ自体死に支配された目標であり、本来虚しいものだからである。目標を設定する主体が死に支配されているならば、神無き自己目標は絶望へと至る傲慢の罪である。ただ一つだけの罪がひとに死を齎すとは、人間の自己がそのような意味で罪であるという意味である。
ハ) この罪と死を克服するものは、従って犯した個々の罪過についての償いではない。過ちを犯す根本に罪がある以上、個々の行為の償いでは追いつかない。自己受容し得る根拠は論証可能な論理ではないにもかかわらず、相対的な自己の有用性によって自己受容しているわれわれは、死に支配されていることを忘れているに過ぎない。
ニ) 教会の使信の唯一性は、相対的な目標を示すことでなく、自己を中心に目標設定することを傲慢の罪とする点にある。そして、そうした旧来の生を廃棄してキリストと共に生きる(ローマ6:4)時、罪からの救いがあり、罪から救われて根本的な自己受容がなされる。こうした真の自己受容が、死の支配から脱して自己を命にあって支配することであろう。
ホ) キリストの十字架は、この死に支配された世界の最終的な廃棄であり、このことが神のみに由来する出来事であることが、神の一方的な恩寵の意味である。われわれが本質において救われたのは、他者に比して相対的に有能、有用だからではなく、神に愛された故である。神の恩赦は、犯した個々の過ちを赦すのではなく、過ちを犯したそのひとを赦したため、行為の倍賞によってではなく、賜物としての恵みに生きる時にわれわれは救われているのである。

  2.説教『林間煖酒焼紅葉(林間に酒を温め紅葉を焚く)』のための黙想
イ) 「正しい者」となることは、日常意識されてはいないものの、われわれの重大な関心である。ひととひととを関係付ける共通の基盤だからである。それだけに、その正しさが神によって秩序付けられていないとき、世はひとの正義によってかえって混乱する。
ロ) 必要なことは権威、秩序に対する従順である。しかしわれわれ、一方で従順が自己判断を停止した妄従であっては「正」とはなり得ない。他方自己人格として判断主体になろうとすると逆に肉に制約されていることが不従順の基となる(『死の知恵』のための黙想参照)。われわれ人間は、そうした矛盾に不自由に縛られた者である故、上の通り義が自己を苦しめるものとなるのである。
ハ) この矛盾を克服するものが信仰の従順である。従順という場合も、あくまで神に対する従順であり、人間感性の制約内での言葉遣いをすれば「霊的秩序」への服従であって、世俗秩序への服従ではない。キリストはこの服従にあって父神より霊的な世界支配を賜わった(Php2:6-11)。
ニ) われわれは、かつては不従順によって妄従せざる自己を獲得した。その自己が主体的にキリストの支配に服する時、矛盾を克服する霊的義を賜わる。



X.恵みによる永遠の命(20、21)
 A.逐語訳
20a:が、律法が入り込んできた、 20b:悪行が増加するために。 20c:が、罪が増加した所では、 20d:恵みが横溢した。
21a:ちょうど罪が死にあって支配したのと同じように、 21b:恵みは義を通して永遠の命へと支配する、あなたがたの主イエス・キリストを通して。

 B.釈義
20 :20a,bは12-14を根拠にしており、20bを克服する20dは15、17-19を前提としているため、当節と次節は12-19の一応のまとめと言える。そこで、律法の救済に果たす肯定的な役割(律法的敬虔による救済)については(それが一切ないことが)既に論じ尽くされており、ここでは最早全く顧慮されていない。むしろ律法は恵みの横溢の逆説的な原因となっている。12-19から論理的に推量しても、悪行または罪の増加が恵みの横溢をもたらす訳ではないため、ここをただ人間の側の論理として読む時には三段論法のような飛躍に感じられる。しかしながら、20dは神の行為を言っているのであって、人間の受ける利益を指摘しているわけではない。すなわち; 律法(a)はイスラエルの民を通して神の義を啓示するものであり、その啓示はイスラエルの悪行(b)という逆説をもって実現した。そこで人間にとっては「律法が入り込んで来たのは悪行が増加するため(a,b)」以外の効果はなかった。人間にとっては「悪行」と「罪」は同義に過ぎないが、この言い換えは、c、dで視点が人間にとっての律法の意味から神の行為へと移ったためである。人間の行動が律法によって悪化したのではなく、律法によって人間の対神関係が悪化した(明確に「罪」になった)のである。そして律法の本来の目的が人間の対神関係を整えることであるならば、対神関係の明確化がキリストという律法の完全な成就を可能にした。この状態が恵みの横溢である。そこで、ここは恵みの横溢をもたらすために人間が悪行をなし得るのではなく、その根拠付けとしての三段論法であるはずがない。当節の前半と後半で視点が変化したことを理解すれば、「入り込んできた」の語をもってここでも未だ律法を否定しようとしているととる必要はない。律法は、人間的に言えば「悪行を増加されるために入り込んできた」のであるが、それはキリストにあっては恵みを横溢させるものであった。
21 :12-19で語られてきた一人のひとを通した罪と恵みの類似と相異が「支配」という概念でまとめられる。かつては罪が死にあって支配していたが、将来恵みが支配する。ここでaとbが精確に対応していないのは、罪と死の関係、恵みと義と命の関係を原因や手段として捉えているのではなく、キリストを通した恵みと義と命と、またキリストなしの罪と死それぞれは異なる相の下で現われた「支配の同一の事態(ケーゼマン)」を表わしているからである。この支配の転換は、人のいかなる功績によっても不可能であることは、恵みの横溢(前節)が律法のもたらされた世界を神の視点から見ること無しにはあり得なかったことから自明である。この支配の転換はもっぱらキリストの十字架死と復活によるものであり、それが礼典的な文体で頌される。そこでaは最早bの引き立て役でしかなく、われわれはむしろキリストを通した支配の転換で「永遠の命」へと向かわされている喜びを、ここから感じさせられる。

 C.説教『いれものがない両手で受ける(尾崎放哉)』のための黙想
イ) パウロは自己救済努力の終局において初めてキリストが律法の成就であることを知った。律法の成就が世界の完成であり、それは永遠の世界への此岸世界の転覆改新である。そしてこの世界の転換が、復活のキリストの意味である。パウロは、ただ死者甦生者を目視したのでなく復活のキリストと邂逅したのである。自己救済努力の終局とは、自己の存在意義を見出そうと苦しんでいた所から、神の前で存在自体が罪であることを自覚することである。
ロ) 律法は、自己の存在意義を見出すために用いるとファリサイ主義になる。しかしながらキリストによる完全と自己との比較において律法を受け取れば罪の自覚となる。自己を罪と認めることは困難であるが、律法について前者の受け止め方をした場合にはどこまで熱心に努力しても神を見出すことは出来ない。すなわち神との関係をこちらの側から持ち得ない故、神の側からの人間関係は、怒りと断罪のみのものとなる。律法について後者の受け止め方が出来た時、ひとは神を知る。
ハ) その神は、キリストにおいては愛であった。それは「キリストは優しかった」という意味ではなく、神へとひとを振り向けさせるものであった。キリストを通して神を見た時、自己においてでなく神の世界において律法の完成を見、自分が愛されていることがその完成した世界の一部であることを知る。
ニ) 神の完成の世界を知らされることは恵みの横溢以外の何ものでもなく、恵みの横溢を感受する者には、世の一切の価値は逆転として映る。