聖 書 研 究
ローマの信徒への手紙 第6章



12世紀オーストリアの写本より


中村栄光教会牧師 北川一明


【目次】

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聖書略号表 (別ファイル)
写本一覧 (別ファイル)

T.洗礼(1-4)
U.神に対して生きる(5-11)
V.義の道具(12-14)
W.義の奴隷(15-23)







T.洗礼(1-4)
 A.逐語訳
1a:では何を言うか、 1b:罪に留まろう、 1c:恵みが増し加わるために。
2a:そうはならない、 2b:誰でも罪に死んだ、 2c:どうしてその中に生きるだろう。
3a:知らないのか、 3b:キリスト・イエスへ洗礼を受けた以上、 3c:彼の死へと洗礼を受けた。
4a:だから洗礼を通して死へと、彼と共同埋葬された。 4b:それは、キリストが父の栄光を通して死者の中から起きあがらされたように、 4c:そのようにわれわれもまた新しい命のうちに歩むためである。

 B.本文批評と語彙
1b:「留まろう(subjucntive)」をSin、K、Pはinidcative。
2c:「生きるだろう(ind. fut.)」をp46、C、F、G、L、Ψ、33はsubjucntive、aorist。
3b:Bが「イエス」を省略。
4a:「だから」をオリゲネス、ラテン語写本が「なぜなら」、ペシッタ写本は省略。
peripatew 歩く。元来は物理的な徘徊動作を表わしたものであるが、ヨハネ文書、パウロ、第二パウロで生き方を示した転義的な「歩む」。こうした転義的な「歩み」は、R.Gergmeierは@ある基準・規範の下に生きる(釈義事典ではb、c)/Aある様態を示す副詞等に修飾された生き方で生きる(同d)/B[光/闇][肉/霊]などの比較対象を伴って(同e)などがあることを指摘する中で、ここでの用いられ方はCある条件や領域のもとで生きる(同a)。すなわち、4cは「新しい命」という領域内を生きる。

 C.釈義
1 :弁証対論形式で、一般に行なわれるであろう推論を先取りして示すのは、罪の増した所に恵みが満ちあふれたならば、罪を増すべきであろうということである。6:15で誤った推論を同じような仕方で取り上げている。6:15と言辞上明らかな違いは、ここでは罪を「犯す(6:15、amartanw)」かどうかではなく罪の下に「留まる(epimenw)」かどうかが問題にされていることである。これまでの文脈に沿うならば罪を「増し加える(5:20、)」ことが問題になるはずで、そうした実際の倫理行動の問題としては6:15で答えられる。そうした信仰者の行動様式を生み出す根拠として、1-11では15-23の前に信仰者の存在の問題、すなわち罪の下に留まった存在であるか、それともそこから離脱した存在であるかが語られる。
2 :そこで仮想質問に対する答は当然「否」ではあるのだが、前章との文言上の繋がりを重んじるならば答はたとえば次のように言うべきであろう; 「罪を取り除かれたわたしたちが、どうして、なおも罪を犯して良いでしょうか(新共同訳に準拠)」。しかしここで問題になっているのは人間存在が罪の支配の下に留まっているかどうかであるため、「誰でも罪を取り除かれた(にもかかわらず……)」とは言わず、「誰でも罪に死んだ(にもかかわらず)」と言い換える。罪と義は人間が自由に選択することが出来る事柄でなく、人間は罪の支配に服しているか/恵みの支配に服するか(5:21)いずれかの状態にあるにということである。罪をそのように捉える限り、罪の支配から恵みの支配に移された信徒にとっては、罪に留まる選択可能性は存在しない。罪が増し加わったところに恵みが満ちあふれたことは、パウロにとっては確かな現実であるものの、それは既に起こったことであって、罪を増し加える努力が恵みを満ち溢れさせることになるのではない。
3,4a:前節の「罪に死んだ」というイメージを、ここでは更に「洗礼とは死である」という新しい論理として固定させる。同じ「罪に死んだ」イメージを発展させるのでも、洗礼の意味をより肯定的に「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその命にあずかるために洗礼を受けた」と言い換えることもできたはずである。それにもかかわらず洗礼をまず「キリストと共なる死」さらには「共同埋葬」という極端に否定的なイメージとして示さざるを得なかったのは、信仰者の存在が根本から転移しているためである。すなわち、恵みに支配されている(5:21)存在となったのは「古い自分(6)」という存在が最早消失しているからである。
4 :洗礼の意味について、バプテスマのヨハネ以来の「罪の洗い清め」が更新され、キリストの死と命に与ることとされる。洗礼についての「罪の洗い清め」という意味が否定された訳ではないが、過去の罪なる自己は死をもってしか恵みの下へと転換されることはなく、キリストへの信仰にあって、われわれはその死を既に経ているとする信仰である。われわれが霊に生きる者として肉の死を経験しているにもかかわらず、現世の生は現実には連続していることから、この死も「新しい命」も神秘的(心理的、感傷的)なキリストとの一致を想起させやすい。しかしキリストは既に甦らされた(b)が、信仰者が新しい命に歩むこと(4c: subjucntive、 5b: future)は、キリストが甦ったことのわれわれにとっての目的として、現在以降の事柄である。そこで、洗礼の信仰告白を伴う人間が意志した面を「共同埋葬」と結びつけ、「新しい命を歩む」ことを、われわれが意図すべき信仰にある生ととらえた方が、「罪を増すべきか、否、罪の下に留まり得ない(1、2)」として始められた文脈に、より合致する。

 D.黙想
  1.説教『もっと大切なもの』のための黙想
イ) 罪が曖昧である間は恵みの横溢を知らなかった人間も、神の子を十字架で殺すまでに罪が極まった所で恵みを知った。それは、罪を犯せば恵みの横溢を知るということではなく、犯している罪を知った時に恵みの横溢も分かるということであろう。
ロ) 人間の義とは、おそらく罪を知ることである。なぜなら、犯して来た過ちを「罪」と知ったとき、われわれは常に罪のもとに留まることが不可能であるからである。「罪の中に生きることができない」のは、命の源である真理に生きながら同時に罪の中にあることは矛盾、分裂だからである。イエス・キリストに結ばれることによって可能となったのは、命の源である真理によって人格が統一されている状態とされたことである。
ハ) キリストの献身死は、ただ人間のためだっただけでなく神自身のためでもあった。キリストがキリストとして統一された真実であるためには献身死は必然だからである(2Tm2:13)。しかしこの献身死は、われわれに対する献身でもある故に、われわれはキリストの生き方に与ることができる。キリストの死の理由を思い巡らす時、われわれも、自己を追求することが自己を分裂させ喪失させる罪なる状態であったことを知る。それを知った後には、統一に向かって生きることができるのである。
ニ) われわれはキリストへの信仰を得た後、欲望を昇華できるようになったわけではなく、過ちを犯さなくなったわけでもない。ただ、そうした状態が自己の不統一であることと、統一に向かって歩まされている過程であることを知り、そこから自分の生を見直す視点を得ているのである。

  2.説教『生前葬儀』のための黙想
イ) 信仰の命は罪の対局にある故、罪の死の後にしかない。以前は罪過の度にそれを洗い清める儀式として行なわれていた洗礼も、キリスト教会では生涯一回限りのしるしとなったのは、この点では当然である。そして浸礼に象徴されるこのしるしは、罪の世界に取り囲まれてこれに溺死することを連想させる。
ロ) 信仰者は、この死を死んだ後に生きる者である。ある意味では「余生」を生きるのであり、葬儀を済ませて世との訣別を告げた後にまで生前の生活のもとに留まることは、あり得ない(2)。世のいかなる要素と別れを告げたのかを誤る場合に教会は厭世主義になるが、これを正しく知った時、信仰の命を生き始めることになる。
ハ) われわれが別れを告げた罪とは、「神を神とせず自分自身を神とすること」といわれる。われわれにそのような意図、意識はないとしても、己を義としようとする以上、それは背信であることは、律法によって十分に知らされるところとなった(5:20)。この罪は、われわれに抗うことはできない面はあるものの、だからといって責任を免れるものではない。
ニ) その罪に絡め取られて苦しみつつ溺死した自己を、われわれはしるしとして既に受けているのである。このような罪との訣別葬儀を済ませた者として生きる時に、世は感謝すべきことのみしかないものに変わるであろう。この世は死者を苦しめることが出来ないからである。


U.神に対して生きる(5-11)
 A.逐語訳
5a:なぜなら、もし彼の死の類似に結びつけられる者となっているのなら、 5b:逆にまた復活にも(そう)なるであろう。
6a:これを知っている、すなわち、われわれの古い人間性は共同磔刑になった、 6b:罪の身体が破壊されるため、 6c:われわれを罪の奴隷にしないため。
7 :なぜなら、彼らは罪から解放されている。
8a:が、もしキリストと共に死んだのなら、 8b:彼と共生するだろうと信じる。
9a:キリストが死者の中から起きあがって死なないと知る、 9b:彼の死は支配しない。
10a:なぜなら彼が死んだのは、 10b:罪にただ一度死んだのであり、 10c:生きているのは、 10d:神に生きているからである。
11 :そして、このようにあなたがたは自分自身を一方で罪の死人でありながら、他方キリスト・イエスにあって神に生きる者とみなせ。

 B.本文批評と語彙
6a:Bはkaiで始める。
sustaurow 共同磔刑にする(6a)。 磔刑にsunを冠せたに過ぎない物理的動作を表わす動詞を、パウロはこことGa2:19で抽象的にわれわれクリスチャンも共同磔刑に処せられたとして用いる。洗礼は自発的な決断を伴うものの、われわれが律法に死んだのは自力でではなく「律法によって(Ga2:19)」磔けられてのことである。
palaio" 古い(6a)。 新約中15箇所19回全てがneo"ananeowkaino"と直接結びつけられている。当該箇所は「新しい(kainoth")命に生きるためなのです」に対比される。ケーゼマンは、5:12から続く人間のアダム的側面に当てはめる。
dikaiow 義とする(7)。 法廷において審判者が正しさを宣告することが基本的な意味である。そこで「apo th" amartia"(罪から)」という目的語を伴う受動態であるここは「罪から義とされている」とするか、または「罪から解放されている」「罪を清められている」「無罪を告知されている」「罪の償いは済んでいる」等。
解放する(7)。 ここではdikaiowであるが、新共同訳・口語訳14回には他に「自由にする(eleuqerowlutrow)」、「解く(luw)」「廃止する(katargew)」、「放免する(apallassw)」がある。また「罪から解放する/される」の意味でこれらの語が用いられるのは、Rm6:6, 7, 18, 22; 8:2; Rv1:5と、大半が6章に集中する。
8a:p46、F、Gがdeに代わって「なぜなら」を置く。 8b:C、Pは「共生するだろう」をfutureに代えてsubjunctive。D他西方写本が「キリストと共生するだろうと……」。
11 :「ありながら(einai)」がSin、Ψで語順が違う他、p46、A、D、F、G、33は省略する。p94、Sin、C、33、1739は「われらの主キリスト・イエス」。

 C.釈義
5 :信仰者が「あやかる(future)」べき「復活の姿」とは信仰者の「新しい命を生きる(4、新共同訳)」姿であるが、未来形で表わされている通りそれは信仰者の倫理的な行動様式を言っているのではない。天の永生へと信仰者の存在根拠が転換しているため、復活に結びつけられるのである。洗礼の意味は、たとえば「肉や死から永生へと存在の転換が起こるための祭儀である」というような礼典論上のものではない。すなわち「洗礼儀礼によってキリストの死を疑似体験する」とか、「われわれがキリストの苦しみを模倣する」ということではなく、十字架の出来事がパウロの存在を転換する力として現実に迫って来たということである。パウロは「十字架の苦しみを典礼で模倣することで自己の存在根拠を転換させた」のではなく、キリストの十字架の苦しみが自己の罪による死の苦しみとして実現した故に存在根拠が「転換させられた」のであり、洗礼はそのしるしである。
6 :したがって、「古い人間性は共同磔刑」になったという極端な表現は、儀礼によるキリストとの神秘的合一が主張されているのではなく「十字架の悲惨が自分の罪の裁きになっている」というパウロの受けた衝撃が表現されている。この十字架の衝撃力は、われわれの罪に支配された身体を圧倒する故、われわれは罪の支配に留まって存在し続けることは不可能となる(2)。その不可能性を、テーマが異なる6:16の表現を先取りしてここでも「罪の奴隷にならない」と表現しているのは、逸脱とは言えないまでも誤解されやすい。6:16が倫理行動を想定しているのに対し、ここは存在の様態が想定されながら書かれている(6:1釈義参照)。
7 :すなわち、われわれは存在根拠を転換させられたのであって、単に罪の刑罰が減免されたのではない。それ故「罪が赦された」とは、たとえ一切の刑罰は受けなかったとしても罪に支配されていた存在であった者が「罪から解放された」ということである。
8 :長大な説明の後に、われわれの古い人間性(6)であるアダムの性質(5:14)が克服されたことが明らかになる。すなわち、差別特化によってしか自己を確立し得ない原罪を負うわれわれの人間性は、キリストの十字架によって、それと共に既に死んだ。肉には既に死んだ者がなおも恵みの下に生きているならば、それはキリストと共に「新しい命(4)」を生きている、つまり存在の転換の後を生きているのである。こうした信仰者の根本的な変化は、我々の側の倫理行動または儀礼によってこの実現したのではなく、裁きと恵みの圧倒的かつ絶対的な力が十字架によって人間に明示される(6:5参照)ことによって、「信じます」と言われるべき事柄になったのである。
8-11:受洗者がキリストと共に死んだことは、読者にとっては自明ではなかった(3)。「死者が罪から解放されていること(7)」のみ合理的に理解し得るものの、キリストとの共生については4〜8で初めて知らされるサクラメント理解である。そこで読者がキリストの復活の姿に「あやかる(5)」ために、「キリストと一体になってその死の姿にあやかる」ことについて、本来ならばその「方法」等が示されるのが合理的であろう。しかし信仰による義は方法として示すことが可能だとすれば、ただサクラメント(3:洗礼)をサクラメントとして理解、受容すること(11:自分は……キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考える)である。
9-11:このサクラメントの受容を導くために、パウロはキリストの讃美を展開する。信仰者が「知る」キリストの出来事は、仮死状態からの甦生ではなく、「ただ一度(10)」の死を経験した後「死者の中から起きあがった(9)」ことである。このためキリストにあっては死の支配は克服されている。罪は、いわば死の原因であり(5:12-14)、死が罪からの解放(7)である故、その死がキリストにおいては克服された以上、キリストにおいては罪も克服されたとする。このキリストにおける罪と死の克服が、キリスト・イエスに結ばれた信仰者には実現していると「理解すべき(11:logizomai)」である。
11 :その際、罪に死んだ死者がなお生きるとすれば、それは神に生きることである。「死にあって罪に支配される(5:21)」ことが克服された今、われわれは「義を通して恵みによって支配される(同)」、別の支配者による被支配関係に入ったことになるはずである。そのことは、われわれの行動のみならず意識や自覚さえも超越したサクラメントとして、神によって既に起きているという点で、われわれは確かに新しい支配者によって支配されている。しかしわれわれの存在様態については、パウロは「神に生きる」ことを支配=被支配関係では語らない。「神に従順に仕える奴隷(16)」であることは、われわれが行動を決断する際にわれわれ自身が選び取ることであって(15-18)、自己が自分自身を正当かつ自由に支配する(5:17)ことでもある。ここ(1-11)はキリストに救われた者の存在様態を罪とのかかわりで述べており、「罪の中に留まるべきか」という仮想の質問(1)に対して「罪に対して死んでいる故、不可能である(2)」ことが説明されてきた。ここで「罪に対して死んでいる」者は「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」という「教え」が明示される。これは「考えなさい」と言われるとおり、信仰者が継承すべき超越からの「教え」であって、人間が内在する論理を持って推論し得ることではない。

 D.黙想
  1.説教『共同磔刑』のための黙想
イ) どんな人間にも良心があって悪を抑制しているし、悪事を為した場合には(刑罰を厭うのとは別に)罪を赦されたいという願望が起きる。刑罰とは無関係に、罪は取り返しの付かない隣人破壊を本質としている。福音とは悪に対して刑罰が減免されることよりも、罪そのものが赦されることであろう。
ロ) 「罪が赦された」という情報を神の言葉として聞きとった時、ひとは救われる。われわれが一度救われながらもまた迷った状態に戻るのは、罪の赦しと罰の免除を混同することに一因がある。感謝と喜びをもって罪が赦されたことを知った時は、むしろ罰を甘受しようという志しさえ起きるものである(41)。刑罰を免れたとしても、罪が赦されなければ何の解決にもならない。しかし罪の償いとして刑罰を受けたとしても、それだけでは罪から解放される訳ではない。
ハ) 罪から解放されるのは死んだ者である(7)と言われる通り、死以外に罪の解放はない。われわれの存在が自己確立を求めるものである故、「罪に支配された体が滅ぼされ(6)」た時に罪から解放される。
ニ) イエスと「共に十字架につけられた(6)」二人の犯罪人のうち、一方は刑罰の減免のみを求めていた(Lk23:39)。しかしわれわれの古い人間性は、死として「アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ(5:14)」確実に支配しているため、この受刑を免れることは不可能である。一方罪に支配された体が滅ぼされることを当然のこととして受容したもう一人の受刑者(Lk23:41)は、罪の赦しのうちに入れられた。
ホ) 信仰とはキリストと共に死ぬ(7)ことである故、われわれが信仰者は赦罪をこの世にあって先取りすることが出来る。われわれの存在は、背神によって自己確立を追求する罪なる存在であるが(『死の知恵』のための黙想参照)、キリストの十字架を、自己の罪を贖う神の力と知った時、解放されていることを知る。

  2.説教『憎んで死ぬか/愛して死ぬか』のための黙想
イ) 「死んだ者は、罪から解放されている」ことは、《@来世を信じない者》にとっては自明の真理である。しかし死が解放をもたらすことを受容するならば、死後の生が虚偽のように思える。一方《A迷信的に来世を夢想する者》にとっては、罪の報いを受けなくて済むために皮相的には慰めである。しかしユダヤ・キリスト教は死の絶対性を良く知っていた。死は罪の報いとしての絶対的な「終わり」であり、人間には克服できないものである(5:12)。死が罪からの解放であることは、死の絶対性の故に真実なのであり、したって人間に希望はないはずであった。
ロ) その死を克服したキリストに救われた者は、罪に対して死んでいるために罪の下に留まることができない存在となっている(2)ことが、この聖書段落のテーマであった。罪に対して死んでいる存在が、それでも尚生きるのは「神に対して生きる(11)」と言われる。罪に対して存在が失われている者が、神に対して生きなければそれは虚無であり、その状態がすなわち来世を信じない者にとっての「死」なのである。具体的には、ひとを愛さず己を義としようとして生きる=死ぬのならば、虚無に支配されている。
ハ) そうした「死」を死ぬ時には、われわれは決して「キリスト・イエスに結ばれ」てはいない。すなわち、死に支配されている。しかしそんな「死」に瀕して、復活のキリストと出会った者は、いかに幸いであるか。われわれがキリストと出会うとすれば、そのキリストは仮死状態からの甦生した人間ではなく自らを啓示する神である。そのキリストは、「一度(10)」十字架で死んだ以上、死の支配を克服している。具体的には、ひとを愛してただ神のみを神とする永遠の命のうちを、キリストは今、存在している。
ニ) われわれが自身の力で神に対して生きることは、その罪の故に不可能である。しかし上述のキリストの愛が、洗礼を通して(4)われわれを捉えていることを、われわれは信じ(8)、理解(11)すべきである。「信仰によって義とされた」という教会の使信は、この点で真実である。信仰によって、自分自身をキリスト・イエスに結ばれた者とみなす者は、死に瀕してひとを愛さず己を義としようとする存在で「あろう」とする「滅び」から救済されている。


V.義の道具(12-14)
 A.逐語訳
12 :だから、あなたがたの死ぬべき体にあって罪が支配するな、その欲望に服従することで。
13a:また委ねてもいけない、あなたがたの肢体を悪の武器として罪に。 13b:むしろ神に委ねよ、死者の中から生きたものとして、そしてあなたがたの肢体を義の武器として神に。
14a:なぜなら、罪はあなたがたを支配しない。 14b:なぜなら、律法の下にではなくむしろ恵みのもとに。

 B.本文批評と語彙
12 :有力写本の「その欲望に服従することで」に代わって西方系(p46、D、F、G)に「それ(fem.=罪)に服従することで」がある。
13 :「死者の中から生きたものとして」に代わって西方系(p46、D*、F、G)に「死者の中から生きた者は」がある。
paristhmi 用立てる、側に立つ。ただし転義して多義的。2Co11:2は教会をキリストに「献げる」であるが、メタファーとして結婚が挙げられている通り、奉献というよりも共に立たせる者として「委ねる」。Rm16の他箇所も同じであろう。
oplon 武器。一般の戦闘用装具だが、パウロではもっぱら転義的に。Rm13:12は「光の武具」、2Co6:7は「義の武器」。2Co10:4では「肉の武器」と対比されているため、当該箇所との整合をとるならば、われわれの死ぬべき「体(14:swma)」の「肢体(13:melo")」は「世俗的肉(2Co10:4sarkiko")」に支配させてはならない。

 C.釈義
12,13a:恵みを増し加えるために罪に留まるかどうか(1-11)、罪を犯すべきかどうか(15-23)という仮想の問いの間にあって、ここは「死ぬべき体」を信仰の中でどう位置づけるかが語られる。「死ぬべき体」は「罪の支配下であるこの世」のものである。信仰者は罪に死んだのであり、欲望を排除することは律法主義的な救済の条件とはなりえない。また、徐々に聖化の過程を経ているとすることも問題にならない。それにもかかわらず、その体を欲望に用いないことに意味があるのは、「罪の支配下であるこの世」にあって、われわれが甦りの支配に入れられている存在であることを常に決断実行するために他ならない。
13b:「死ぬべき体」を罪に任せない具体的な方法は、体を義のための武器として用立てることである。われわれは、霊においては既に死者の中から生き返った義とされたものであるが、罪の支配下であるこの世にあって朽ちる存在である体を義に用立てることによって、われわれは自分自身を神に任せることができる。
14 :体を義のために用いる根拠として挙げられていることは、従って「罪に支配されてはならないから」ではなく、既に「罪は支配しないから」である。「律法の下に」あった時とは、すなわち罪に支配されたこの世という存在の場にあった時であり、従って自己を義の道具にすることが不可能だった。今、恵みの下にあってこの世にありながら義とされたために、自己を義の道具にすることが可能となったのである。そこで、当該箇所は「恵みに導き入れられた感謝の応答としての要請」ではなく、自己存在が分裂に陥ることなく完成へと向かうための勧告である。

 D.黙想
  1.11-14説教『死んでも生きる』のための黙想
イ) 死によって一切は無に帰するという意味で「死んだ者は罪から解放されている」というのでは、そのメッセージは救いではなくただ絶望である。信仰とは罪の支配からキリストの支配に移されたことである故、信仰者は新しい生き方を始めている者である。新しい生き方とは、永遠の命を先取りし、この世にあって天国に在り始めているというものである。それは具体的には自分の肢体を義の道具にするという仕方である。
ロ) 肢体のメタファーに沿って論を展開するならば; キリスト教倫理は一切過ちを犯さないことを要求しているのではないのは、老人に急な運動を強要するのではないのと同じである。われわれは、自分の肢体を完全に自由に扱えるわけではなく、むしろ肢体は思うに任せない。しかし具体的な行動においては不自由ではある肢体は、その行動の目的に対しては自由である。その時肢体は目的に対しての手段となっている。
ハ) ここで言う肢体が、肉体のみでなく心と精神を含むものならば、自己と言い換えることもできる。自己を手段にする時、われわれは自己を超えた目的のために生きることが出来ている。それがすなわち神との合一である。
ニ) 従って、具体的な行動指示はない。あるとすれば、ただ「愛」に基づいて行動するということだけであろう。それは心情的、主観的な行動原理に過ぎないものの、自己を超えた目的である以上、世にあっても必ず善き結果をもたらすに違いない。それは周囲に対しては天国の証示になり得るものの、信仰者自身にとっては結果を問題にする必要すらない。既に自己を超えた目的に向かっている以上、永遠の命を先取りし、この世にあって天国に在り始めている。死が、罪に支配されたこの世の諸要素の一切を無に帰する中、自己を義の道具として用立てている者は、死を超えて続く永遠を既に手に入れているのである。

  2.13説教『キリストと共に生きるために』のための黙想
 死者の中から生きたものとして生きるとは、単に「死んだ気になって頑張る」類のものではなく、キリストの支配に入れられたものとして愛と奉仕に召し出されているということである。
イ) 「死ぬべき者」として一日一日を大切に生きることと、「死者の中から生き返った者」として義のために生きることとは異なる。前者が世俗で最善の生であるが、信仰的な生とは後者である。死ぬべき者として生きるとはすなわち死の支配のうちに生きることで、その最も尊い生き方は、死を超える信仰的な真理を発見しようと努めるというものであろう。しかしキリストは既に死に勝利して復活しており、われわれはその復活に与る者とされているのである。
ロ) 義の「武器」とせよと言われる通り、信仰生活は闘いである一面がある。しかし禁欲と克己によって信仰的真理を発見しようとする(または真理に到達しようとする)闘いは、上の死ぬべき者としての闘いである故、信仰の闘いではない。それは、倫理的放縦によって得る快楽を従うべき真理とする放縦主義と同じ、死に向かう闘いである。
ハ) 信仰の闘いは、そのような真理を求める=すなわち=死に支配されて死に向かわされている自己が、キリストと共に十字架につけられた故に復活のキリストの不死性に与るのだという希望を信仰にあって抱く闘いである。肉の目では持ち得ない希望を、祈りにあって持つ闘いとも言えよう。
ニ) 死に行く者として、すなわち肉の目によって知り、かつ信じることのできるデカルトの類の「我」とは現在の一瞬間のみの我であろう。そうした自我に立つのならば、死に行く肉体を欲望に委ねて何の問題もない代わりに、復活に希望を託すこともできない。信仰者がこの希望を持ち得ないのだとすれば、信仰者としての存在が分裂しているからである。罪の下にではなく恵みの下に導き入れられた存在であるにもかかわらず、その存在に反して罪に身を委ねていれば、キリストの不死性に与っていることを自覚できるはずがない。
ホ) キリストの不死性に与っているということを信じにくいのは、それが見えざるが故ではない。多くの世人が将来の復活を信じないにもかかわらず、見えざる過去を信じている。今の恵みに導き入れられたことを信じる信仰者は、過去のキリストの出来事を受容しているという意味において、過去の存在を信じている(デカルトとの対比)。過去を信じると同様に将来を信じることは、「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる(8)」ことを信じることとも類比し得る。罪に身を委ねては「ならない」のではなく、自身の働きを通して神の意志を見ることが出来た時、復活のキリストを身近に感じられるのである。


W.義の奴隷(15-23)
 A.逐語訳
15a:ではどうか、 15b:罪を犯そう、 15c:律法の下にではなく恵みの下にいるゆえ、 15d:そうはならない。
16a:知らないか、自身を奴隷として従おうと委ねている者に、 16b:従っている人に奴隷となる、 16c:死に至る罪に、または義に至る従順。
17 :が、神の恵みや、罪の奴隷でいた、が、従った、心から与えられた教えの形に。
18 :が、罪から解放された者たちは義に隷従させられた。
19a:あなたがたの肉の弱さのために、分かり易く言えば、 19b:ちょどあなたがたの肢体を悪と不法の奴隷として不法に委ねいたように、 19c:今やあなたがたの肢体を義の奴隷として聖へと委ねよ。
20a:なぜなら、罪の奴隷でいた時、 20b:義に自由でいた。
21a:それで当時何の実を持っていたか、 21b:今や恥ずべきそれ(実)、 21c:終局は死である故。
22a:が、今や罪から自由であり、また神に隷属して聖へとあなたがたの実を持っている。
23a:なぜなら罪の報酬は死、 23b:が、神の賜物は我等の主キリスト・イエスにあっての永遠の命。

 B.語彙と本文批評
15b:西方と教父に「罪を犯したのか(aorist)」、後代小文字写本に「犯すだろうか(future)」がある。
16a:西方写本は「それとも」で繋げる。 16c:Dは「死に至る」を省略。
doulo" 奴隷。ローマ書では当該箇所の6回の他は、冒頭の自己紹介で自らを「キリスト・イエスの奴隷」として以来で他はない。パウロ書簡全体では、Ga4の他1Co7が「奴隷」本来の意味を保持しつつ転義的にキリストの贖罪による「自由」との対比で用いられている。「仕える/隷従する(douleuw)」は「キリストに仕える」等が散在する他、かつての奴隷状態についてGa4で述べられるものの、「義の奴隷」のような強く肯定的な意味は他にない。douleiaもRm8では否定的に用いられる。
17 :Aは「清い心から」。
18 :Sin*、Cは「それで」を入れる。「解放された」については7節の語彙参照。
anqrwpino" 人間的に。話し言葉で。
19b: 「不法に」をBが省略する。19b,c:「奴隷として」に代わって西方に「奴隷となること」がある。
21b-22a:p94、Sin2、B、D*、F、Gは「なぜなら一方で終局は死であり、他方今や罪からら自由で……」とするが、Sin*、A、C、D2、Ψ、33に従った。

 C.釈義
文脈:恵みが罪によって満ちたこと(5:20)から、罪に留まるべきかどうかが問われ続けている。初め(6:1-11)に、恵みを受けた者は、その存在として罪に留まり得ないことが示された。それは「罪の支配」ではなく「キリストの支配」の下に存在するということであり(12-14)、「支配」から「自由/奴隷」という問題に関心が移る。「奴隷(doulo")」とその類語はGaでは「自由」と対比されてキリストによる贖罪以前のものとして否定的に取り扱われている。当該箇所は「神」と「罪」との対比において、そのいずれかの「奴隷」であるとされる。すなわち、パウロにおいてはひとに服従する規範が失われることはあり得ず、自由とは罪の奴隷から買い取られた状態(1Co7:23)であるが、それはキリストに仕えることになったことを意味する(1Co7:22)。
15 :われわれは、信仰を得た後も罪を犯す者でありながら、決して罪の下に留まり得ない存在である。ここでのパウロの弁証対論のテーマは、罪を犯すことが「許可されるべきか(新共同訳)」ではなく、罪から解放された者の「行動が罪に向かうものであるかどうか」である。したがって、その答は「否」ではあるが、次節以下で示されているのは倫理ではなく、ひとが隷従している対象である。
16a,b:この手紙を書いたアカイア、マケドニア、アジア周辺の特定できない地と、受取り教会のあるローマにおいては、その社会も教会も相当割合の奴隷を有していた。そんな中で、パウロはまず一般的な真理としてヒトが奴隷である条件を述べる。それは何らかの力で「奴隷であることを強要されることによって奴隷となる」のではなく「隷従する時に隷従する対象に対して奴隷となる」という奴隷制社会の常識に反するものである。名宛人であるローマの教会員は、キリスト者である以上社会的身分は奴隷であっても「主によって自由の身にされた者(1Co7:22)」であるという認識を、パウロは持っていた。したがって、社会的には奴隷の身分であっても、人間存在としての生を何に従うことで全うするかは、当人が選択できることになる。このことを、パウロはまず確認させる。
16c:「仕える」が、上のように存在の基盤を想定している以上、《何ものにも隷従しない(存在基盤が無い)》ということはあり得ないし、また《他者に仕えるか/自由であるか》という選択でもない。「義の支配」に入れられた者はこの世の諸力の拘束からはすっかり自由になっており、他者に仕えることから自由にされていることは、既に信仰者の前提となっている。すると、ただ神に仕えるか/それとも/神以外のもの、すなわち表面的には人間の欲として現われる自己を神として仕えるか、しかない。要するに《神に仕えるか/罪に仕えるか》の選択となる。罪に仕えることが死に至ることは、5:12-14で既に十分に述べられている。神に仕えることは、罪に対して死んだ者であれば当然である(6:4, 6, 12ff)が、その時存在の基盤となる神とは、キリストの十字架によって啓示された「義」としての力である。
17,18:そこでパウロは罪を犯すことを許可しないのではなく(15節参照)、ローマの信徒が既に「義の支配」へと移されていることに感謝し、讃美するのである。「罪の奴隷」から「義の支配」に移されたのが「伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うように」なったと言い表わされるのは、受洗が前提になっているからである(4)。そこで「教えの規範(tupon didach")」とは律法に代わる道徳律ではなく、洗礼入会時の告白定式であろう。キリスト者は既に恵みの下に入れられているのであり、従って救済のためのあらゆる道徳規範からは全く自由にされている。しかしながら、それでいてキリスト者は無規範になったのではない。前節までで示された通り、無規範に見える態度はすなわち自己を規範とする罪の規範下にあることだからである。
19 :「肉の弱さを考慮して」が分かりやすく説明する理由であるならば、奴隷制度をメタファーとしていることの弁解として語っているとも考えられる。しかし19bにかかるのならば「肉に弱さを抱えていればこそ、肢体を義の奴隷として聖へと委ねよ」。または20以下も含めた後置文全体にかかって「罪の奴隷でいた時には恥ずべき実りしかなかった」という具体的な指摘が「分かり易い説明」であるかもしれない。19b,cで言われている内容は、12、13で言われた肢体を義の道具として委ねることの繰り返しである。それを自身を「義の奴隷」とするとの表現が新しい。このことは自身を道具にする(13)ことから容易に推考され得るものの、その根拠が「恵みの下にいる(14)」ことである故生じやすい倫理的放縦に反対する役割を担っている。さらに「罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか(16)」が、より「分かりやすく」説明される。かつての「不法の中に生きていた」生き方は、「汚れ」と「不法」の奴隷としての生き方である。一方後者の生み出す具体的な行動は「聖なる生活を送る」ことである。
20 :罪から解放された者が義の奴隷であるように(8)、罪の奴隷である者は、逆に義からは解放されているという捉え方を提示する。パウロが仮想する反対者は、「罪から解放されているが故に何ものにも支配されない」と考える。彼らが「聖なる生活」を目指しても拒んでも、いずれにしてもそれはいわば「罪からも義からも解放されていて完全な自由である」という自己理解である。それに対して、「義から解放されている」ならば、その場合の現実はどうだったかという問題へと考察を移す。義から解放されている存在は、その存在基盤を罪に置かざるを得ない論理は既に16で示してある。次節では16の論理を具体例をもって証明する。
21 :「義から解放されていた時の現実」を考察するにあたっては、名宛人たちに救われる前の生活について想起させてその証言を求める。すなわち、義の奴隷でないころには、その生活は、信仰者の目から見れば恥ずべき実りしかもたらさなかった。その結末を予想すれば「死」であるとして、16節前半の主張を「分かりやすく」証明する。「聖なる生活を送る(19)」が洗礼を受けることと関連づけられていることは17から類推されるが、それは相対的に倫理・道徳に合致する実生活を行なうようになることと矛盾対立するものではない。もっともキリスト者の存在は罪の奴隷ではなく義の奴隷に既に移されている故、実生活の想起はあくまでメタファー(19:分かりやすい説明)である。
22 :20,21によく対応して逆の場合が示される。罪から解放された時、われわれは何ものにも支配されないのではなく「義の奴隷」となるのであるが、その場合の現実の「生活(新共同訳)」は今どうであるかと言えば、実際に実を結んでいる。そして罪の奴隷であった時の結末が「死」であれば、先行する6:5, 8を論拠に、聖なる生活の実りは永遠の命へと行き着くことを示す。
23 :当節の内容は19-22の「分かりやすい説明」の要約であるが、修辞上対照的によく整えられた文で、あたかも「伝えられた教えの規範(17)」のようにまとめられている。われわれが罪という存在様態ととるならば、それは存在であるばかりでなく行為となる。そのため報酬を得るが、その報酬は死である。それに対してキリストへの信仰は、われわれがそうした存在に変えられ、招き入れられたものであり、賜物である。その賜物は、キリストによる永遠の命である。罪の奴隷を自ら選び取っていた者は、罪への隷従を止めるのならば他の主人が必要であった。賜物によって義の奴隷となった時、ヒトはキリストの永遠の命へと導かれる。かくして、ひとが神のみを神とする本来の神人関係に戻るのは「義の奴隷」となること、すなわち神への全面的、絶対排他的な隷従となるのであるが、この義の束縛が絶対排他的であるが故に、キリスト者は他の一切の支配から(特にその支配が絶対のものに見える死の支配からさえも)自由になるのである。

 D.黙想
  1.当該箇所での諸説教の可能性
   @自由の概念
   A死が主人だった悲惨からの救済
   B自己奉献
   C報酬と賜物の対比

  2.説教『遠くのひとのために』のための黙想
イ) キリスト者が出来る隣人愛の最善の業は「祈り」であると言われる。クリスチャンの「祈り」は、実際に自己を削って奉仕することをしない言い訳となっている場合が多いかもしれない。信仰とは行動そのものではないが、行動を伴うものであろう(Jc2:16,17)。行動には規範がある。われわれの行動規範は、(実際にどこまで規範通りに出来ているかはともかく選び取ったものは)「神の義」である。
ロ) しかしあらゆる援助が人の業である以上、どんな援助も人間に救済できない災いからの救済とはなり得ない。苦しむ者に対する最善の愛の業は神の力を呼び起こす祈りである。直接対面している場合は、神の力がその相手に及ぶ。直接対面できない者のために祈る場合、その者に対する効果はわれわれの知る所ではないが、自分自身に対しては、神の力は確実に働く。
ハ) 他者との相対比較では不公平な災害に遭う時、われわれ自身がキリスト者として幸せであるべき幸せであれるか否かは、何を主としているかにかかっている。自己を神としている場合、相対比較で不幸な場合は完全な不幸となる。「しかし、神に感謝します」と我々が言い得る者であるのは、自ら進んで神に仕える者となったからである。
ニ) 相対比較的不遇にあって、何がそのひとを幸いに導くかと言えば、神の喜ぶことをすることに尽きる。
ホ) 自然災害の被災者のために「祈る」ことにどういう意味があるのかと言えば; その者がそうした信仰の幸いを得ることを祈願することが第一となろう。それには、祈る自分自身の信仰が、祈りにおいて問われている。奇跡治癒があるかどうかはわれわれの関知すべき所ではない。しかし祈る時、自分自身に対しては、奇跡治療が既に起こっている。

  3.永眠者記念礼拝説教『恵みの下に居る者よ』(15-18)のための黙想
イ) 幸いを主観的に感じ取るのは、特に自覚的な信仰の告白を重視するプロテスタント教会にあっては、信仰生活の結果である面が強くならざるを得ない。これを信仰が深まれば幸せになるとするならば、それは同時に洗礼を受けていることが機械的には助けにならないということでもある。逝去者については、種々の信仰生活があったのが実際でり、どの程度幸せだったかと言えばまちまちである。それでも我々が永眠者記念礼拝を持ち神を讃美し得るのは、信徒の側の主観的な幸いを問題にするからでなく、信徒に働いた神の力に着目するからである。キリストの信徒とは、神から「恵みの下に居る者」と呼び掛けられたた存在である。
ロ) 神のものとされた存在であることをより主体的に受け取ることが、上の「信仰を深める」ことであろう。そのためには(韓国教会に多い)祈りと倫理実践も(日本に多い)神学的思惟もいずれもそれぞれに必要であろう。しかし信仰の始まりは祈りでも思惟でも倫理実践でもなく、神から与えられたものである。
ハ) 具体的には、「伝えられた教えの規範(17)」を主体的に告白した。それが「キリスト教信仰」なる規範を、種々の規範のうちの一つとして選択したのであれば、信仰は与えられたものではなく選び取ったものとなる。しかしそうではないため、ここでは信仰の受容は完全なる規範を規範として信じるか信じることを拒むかとして捉えられている。規範を受け入れたとは、どれだけ倫理的に振る舞っているかよりも、たとえば「われらに罪を犯す者をゆるす如くの」と祈ることができるかどうかで自己診断できる。自己の設定した規範に従えば悪と見えることを、キリストの故に赦すとする自己に反する赦しを行なうことが実際に出来かねるとしても、その方向を向いていることが信仰である。
ニ) 信じることを拒むとは規範を選択する立場であろうとする(己を神とする)ことである。その場合、その者は自分自身を神から自由に解放しているが、その向かっている先は罪と死である。蟻地獄に落ちたように死に向かいながら、その場で不道徳に振る舞おうとも、逆に自ら選んだ倫理道徳に従おうとも、滅びることに変わりがない。規範を受け入れた者は、この蟻地獄から外に運び出されている。その外での態度は、死に向かっている時と同じく不道徳であろうが道徳主義的であろうが、外に出されている事実が「神に感謝します(17)」と祈らざるを得ない喜びなのである。
ホ) 受洗していた逝去者が、かつて幸いであったか、また天国で幸せかどうかは、当人の信仰が本物であったかどうかと同じくわれわれが知るところではない。われわれが知っているのは、受洗した逝去者は、その生涯の中で、この「恵みの下に居る者」として神に呼び掛けられたことを発見した者であり、その点がわれわれと全く等しく祝福のうちにある生涯であったということである。

  4.こども合同礼拝説教『ザアカイ物語り』のための黙想(ルカ19:1-10との関連で)
イ) 奴隷とは何か、われわれは知らない。あらゆる人間が何らかの制約を受けておりながら、同時に心の中で思うことは無制約である面が残っているからである。聖書は、物理的、心理的制約についてを奴隷と言うのではなく、全ての者が服従する価値規範があると言う(16)。
ロ) 価値規範が「罪」である場合、欲望を追求することになる故、一見「自由」であるように見える。しかし「罪」を規範とすることは、ひとを欲望において孤立させる。孤立は人間本来の生き方でない故に、ひとは当然不幸になる。
ハ) 他方、孤立とは反対の献身は、相互献身でない限り自己の制限、破壊でもあり、やはり人間の肉的本来性に反する故に自然には起こりえない。人間は罪の奴隷でそこから解放され得なかったために不幸だった。
ニ) キリストの贖罪は、献身的な態度が相対的に多い(Lk19:3,7の群衆)か少ない(Lk19:2ffザアカイ)かにはよらず、そもそも罪の奴隷から解放するものであった。


  5.説教『信頼』のための黙想
イ) 神の奴隷となることは、すなわち神を神とすることであろう。それによってわれわれはかえって自由を得る。「健全な自由」と称して自由が「倫理道徳からの自由ではなく倫理道徳への自由」と定義づけられることがある。しかし神の与える自由は倫理行動のみに影響するものではない。信仰の自由は、この世の生における困難を受容する自由を与えるものである。
ロ) アブラハムは、75歳になりながら未知の土地へ旅立った(Gn12:1-4)。神を信頼していたからであり、また自身を神の奴隷としていたからである。しかしその信頼と並行して蓄えた財産の全てを携えるという準備も行なった(同5)。最善の備えをしながらも不安を抱く点は、不信仰な者となんら変わらない。アブラハムの奴隷の故の自由は、無計画な委託ではない。
ハ) 信仰(すなわち聖なる生活:Rm6:19)とは、自分が信仰が弱く自身ではそれを深めることも出来ないことを知りつつ、その自分に神の恵みが注がれていることを信じて待ち、見つめ続けることであろう。アブラハムは、不安を抱きながらも、その不安の中を率直に生きる自由を持っていた。その結果、アブラハムは幸いを得た。預言の通りに子孫が繁栄したことは、アブラハムの仕合わせそのものではなく、われわれがそれを知るしるしである。アブラハムの仕合わせとは、その時々、神の示した道を歩むことができたこと、それ自体である。
ニ) 仮に彼が不信仰から神の示す道を拒んだとしたら、彼の得るものは死のみであった。不信仰の実りとは、世俗的な不道徳行為に限るものではなく、道徳主義的偽善行為もまた不信仰の実りである。死に向かっている虚しいものを最高の価値とする倒錯が罪であり、その実りとはそれに仕える自己分裂である。
ホ) 信仰(すなわち聖なる生活)は、アブラハムが神の示しに従った通り、献身である故、多くの場合は隣人に対する奉仕の業に結実するであろう。表面は、自己満足の偽善と同じ行動であるかもしれない。けれども神に従う者は、自己を喜ばすものではないが故に、永遠に行き着く幸いとして、それを受け取ることが出来るのである。
ヘ) その幸いの第一歩は、不安を抱いて小さな知恵で必死で準備しつつも、忠実に神の示した道に従うことである。われわれは、既に導かれてこの第一歩を踏み出しており、聖なる生活の実を結んでいる(22)。われわれがその幸いを自覚するために、この上尚必要なことは、不安を抱えつつ神の導きに従う我に施される恵みと、それによって信仰が強められて行く自分自身を見つめることだけである。

  6.特別伝道礼拝説教『自由を与える真理』のための黙想
イ) 宗教家が自己の有限性を悩みの根源とすることはあっても、われわれの悩み苦しみは、一般には対人関係、経済問題と健康である。現代において「自由」が尊ばれるのは、自由とはこれらの苦悩が解決しやすいからである。さらに自由は自己同一性の問題にも関係し、必要不可欠なこととされる。しかしそれは、パウロの時代のギリシア世界でも同じであった。聖書は、自由にも死に至るものと永遠の命に至るものとがあることを知っている。自己追求は死に至る自由である。
ロ) 恥ずべき実りと聖なる実りの例として炭鉱労働者が薬物依存の破壊的生活をしていた所から、死を予期して奉仕の生活になったとするものは分かり易い。しかし道徳的な生活であっても自己追求であるならば死に向かう道徳であることにかわりない。いつでも対人関係、経済、健康問題が自分を脅かす最大の問題であり続けるからである。それは信仰生活であってさえ、自己目的であるならば死に向かっている(ヨハネ8:31以下)。われわれは、自己を目的とすることの奴隷になっている。
ハ) 炭坑夫の例がこころをひくのは、もはや自己を目的としていないことが感じられるからである。自己の生を奉仕に献げるならば、苦悩から解放される。
ニ) もっとも苦悩から逃れるために献身を志すことは、自己目的で自己を目的とすまいとすることに過ぎない。完全な献身は死を前にした諦観をもってしかできないことであろう。そんな人間の矛盾を神が憐れんだことが、神の賜物である。神はキリストを顕わし、友のために命を捧げる愛を知らせた。これを教会は、永遠にして絶対の真理と証しして来た。
ホ) 死に瀕した時、件の炭坑夫のようになることが出来なければ大いなる災いである。死に瀕することなく献身ができれば大いなる幸いである。自己を放棄した献身は、われわれは死に瀕していない限り、絶対に「厭」である。しかしわれわれは既にキリストを啓示せられている。「厭」でありながらも件の炭坑夫に「聖なる生活の実」を見出してそれに憧れを抱くのならば、既にキリストの生き方を真理として受け入れ始めている。
ヘ) 未だにこの真理に逆らう思いを持つとしても、そうした思いに従うことは虚しく無意味であり、愚かである。その結果は、この世においては貧しく、来たる世においては恥と憎悪の的である。今、世にあって苦しんでいる限り、この与えられた真理を受け入れることを妨げるものは、本来は何もないはずである。